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 以下の文は、月刊「潮」(潮出版社発行)の平成10年10月号に掲載された文章を、筆者である有田美智世氏ならびに編集者・南晋三氏の許可をいただき、井手よしひろの責任でHTML化し掲載するものです。
 日本さい帯血バンク支援ボランティアの会代表・有田氏の行動の軌跡、一連の厚生省の動き、検討委員会の審議の経過など、臍帯血バンク設立運動の中間総括ともいうべき内容です。

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新しい生命がもう一つの生命を救う

 この7月16日に開かれた第10回厚生省臍帯血移植検討会での中間まとめで、ようやく来年度中に公的臍帯血バンクを設立することが決まりました。最終報告はまだですが、現時点では、200万人を超える多くの方々に署名いただいた要望書通りの形に、ほぼもっていけたと評価しています。

 それには、今回の検討会が公開で行われたことが大きかったと思います。委員として参加している私に、冒頭に来て下さっているボランティアの方々がいろいろとアドバイスをしてくださったからです。また、その存在自体が、私にとっては力強い励ましでもありました。

 私たちが、臍帯血移植の推進運動を始めて6年になります。その間も、さらに1月から始まったこの検討会の間中も、私の心をとらえて、澱のように沈んでいる1つの疑問がありました。

 その疑問というのは、

「白血病や重度の再生不良性貧血などで苦しむ患者さんたちにとって、臍帯血移植は、なぜ、厚生省や医療関係者は、その推進に躊躇するのだろう」

 というものでした。医療に関しては全く素人の私には、そのことが本当に納得がいきませんでした。

 臍帯血というのは、母親と赤ちゃんを結んでいる「胎盤」と「ヘソの緒」に含まれている血液のことです。それには血液を作る元になる造血幹細胞が豊富に含まれています。

 これまで出産後は、胎盤もヘソの緒も医療廃棄物として捨てられていました。その捨てられていたものから、臍帯血をとり、白血病や再生不良性貧血などの患者さんたちに輸血しようというのが、臍帯血移植なのです。

 臍帯血移植は、骨髄移植に比べて、いくつかのメリットがあります。

 一つは提供者の負担がないということです。骨髄移植の場合、提供者自身も全身麻酔用を受け、数日間入院しなければなりません。その点、臍帯血は、出産後の胎盤とヘソの緒から採取するので、提供者には身体的にも経済的にも負担がないのです。

 同時に、採取し冷凍保存しておいた臍帯血は、必要な人に必要な時に輸血できます。

 さらに、骨髄の場合、第提供者と移植する患者のHLA(白血球の6種類の形)が完全に一致しなければなりませんが、臍帯血の場合は完全に一致しなくてもいいのです。

 ただ、臍帯血は、ひとつの胎盤から採取できる量が 50〜150ミリリットル位と少なく、基本的には体重が50キロまでの子供への移植に適しているといわれています。しかしこの点に関しても、臍帯血は骨髄に比べて、単位血液当たりの造血幹細胞が5〜10倍と多いことも知られています。量が少なくても効果は期待できるわけで、実際に欧米では体重が70キロを超える大人への移植に成功した事例がいくつもあるし、日本でも大人の成功例が出ています。

 そしてなにより、臍帯血は、新しい生命の誕生というこの上ない喜びの瞬間に、もう1つの生命を救えるという喜びを付加してくれる行為なのです。

 私たちが臍帯血移植推進の運動を始めた時から、多くの若い母親たちは、「もっと自分たちは健康な子供を授かることができた。この幸せをだれかに分けてあげることができるのなら、ぜひ使ってください」

 と、喜んで臍帯血提供の申し出をしてくださっています。

 まさに、これはひとつの新しい生命が、もう一つの生命を救うという二重の喜びを与えてくれる行為なのです。そのことが多くの女性たちの共感を呼び、運動がここまで広がってきたわけです。

 なのに、どうして、公的バンクの設立までこのにこんなにも時間がかかってしまったのだろうかと、素朴で考え込んでしまうのです。そこに日本の医療行政の悪しき慣習を感ぜずにはおられません。

私が「なぜ?」と感じた最初の出来事

 そうした思いを私が持つのは、私がただの平凡な一主婦、市井のオバチャンにすぎないからだと思います。医療行政の世界では常識とされる慣習やしきたりについても、なんか変と感ずる素人の目を持っているからです。その思いが、私をここまでこの運動に駆り立ててきた原動力になっているのです。

 私のボランティア活動の原点は、献血推進運動でした。

 いまでは信じられない話でしょうが、戦後、昭和30年代くらいまでは、生活費のために自分の血液を売る「売血」が公然と行われていました。その一方で、病気やけがの治療に必要な血液を購入できない貧しい患者も多くいたのです。そうした「売血」に頼った血液事業の中で、いくつも血液を通した感染症の事故が起こっていました。

 昭和39年に、米国のライシャワー駐日大使が暴漢に刺されるという事件があり、このとき輸血に使った血液によって大使が肝炎にかかってしまいました。これをきっかけに政府は一夜にして売血容認から献血主義に血液事業の方針を転換し、全国的に献血推進運動が広がっていきました。そうしたなかで輸血の保険適用も認められていったのです。

 私が、初めて献血を訴えて街頭に立ったのは昭和41年のことでした。以来、献血推進運動をボランティアとして細く長く続けてきたのですが、昭和61年ごろから、血友病患者の輸入血液凝固因子製剤によるエイズウイルスの感染をきっかけにして、成分献血の推進運動を主体的にやり始めたのです。

 その運動のなかで、骨髄移植をすれば、根本的に救われる可能性のある白血病や再生不良性貧血の患者たちが年間数千人の単位で発生していること、またその家族の人たちが患者と同じHLAの形を持つ骨髄提供者を求めて苦労されていることを知りました。

比較表

 HLAの検査をするためには、1人につき数万円もかかるのです。しかも完全に一致するHLAを持つ提供者を探すとなると何百人にも当たらなければなりません。これを個人で行うことなど到底できることではありません。それで、私たちは成分献血と同じように、全国で骨髄を提供してもいいという人を募り、あらかじめHLAを検査しておくという骨髄データバンク構想を立て、全国的な「骨髄献血希望者の会」という運動を組織していったのです。

 私たちの目的は、血液事業の中に骨髄バンクを位置づけることでした。このときも意気の長い運動を続け、平成4年には公的骨髄バンクの設立時までこぎつけました。

 そして、そのころから、私たちは臍帯血バンクの早期設立で向けての運動を進めていたのです。

 世界で最初に臍帯血移植が行われたのは、フランスです。平成元年のことでした。そのときは、臍帯血移植はこれからの技術だなと思っていたのです。臍帯からとれる血液の量が少ないということが頭にあって、今後、増殖の研究が進歩すれば使えるだろうなという程度の認識だったのです。

 ところが、平成3年ごろから臍帯血移植が実用化の可能性があるものだということが欧米の情報として入ってきました。これが実用化されるなら、提供者に大きな負担をかける骨髄移植よりも、多くの点で優れている。遅かれ早かれ日本でも実用化されるだろう。そのときのために今から準備を進めておける間違いないだろうというのが、臍帯血バンクの運動を始めた動機でした。

 ところが、医学界の主流は、驚くことに骨髄移植の次にくるものは、末梢血造血幹細胞移植だということだったのです。

 末梢血造血幹細胞移植というのは、血液提供者の腕などの末梢部分の血管から血液を採り、これを患者に輸血するというものです。このとき、人間の免疫力を高める薬剤を提供者に注入するのです。その薬剤は、通常はガンなどによって免疫力の弱った患者に投与されるものなのですが、これを健康な提供者に注入する場合、どんな影響が出るか測り知れません。心配される一つの例は、新たな白血病患者を作るということです。

 片方に、臍帯血移植という安全でメリットの多い事実があるのに、だれもが簡単絶対に安全だとは言い切れない事実を優先させようとする。この医学界の流れが、私にはどうしても理解できませんでした。

 これが私が初めて感じた「なぜ?」という思いだったのです。

浜四津さんとの出会いと運動の拡大

 医学界の大きな流れに棹さすように、私たちは小さな草の根の勉強会を開き、臍帯血移植の理解とバンク設立の必要性を学んできました。そして時間をかけながら臍帯血移植に理解がある医師たちと協力して、公的臍帯血バンクの受け皿となりうる血液バンクを立ちあげました。

 臍帯血バンクは、提供者の同意を得られた出産後の臍帯から血液を採取しHLAの型や種々の検査をした後、細胞分離(臍帯血から赤血球を取り除くこと)させて、必要な患者が現れるまで冷凍保存をしておくものです。

 私たちは、運動に協力してくださっている産科施設から連絡を受けると、保存箱に入った臍帯血をバンクまで運ぶというボランティアも地道に続けました。

 そんな中、一昨年の10月、アメリカに臍帯血移植の現場を視察に行く機会を得たのです。アメリカでは、そのときに300症例ほどの移植(現在では700症例以上になっている)をしていました。これは研究用などではなく、すでに定着しているという実感を受けました。

 その年の暮れのことです。末梢血提供のために、免疫を高める薬剤を注入された提供者の脾臓(血液を作る臓器)が破裂したという報告が入ってきました。これは外国での事件だったのですが、このまま健康な人から末梢血提供を進めていれば薬害エイズ以上の薬害が起こりかねないという危機感を強く持ちました。

 もうグズグズしてはいられない。そう思った私たちは、臍帯血移植に対する保険保険の適用と、公的バンクの早期設立の目的に運動を広げていこうと決意したのです。志しを同じくする医師たちは、臍帯血移植も含む学会をつくる準備を始めてくださることになりました。

 ちょうど平成10年に2年ごとに行われる医療費改定があります。それに間に合わせるためにも動きださなければならないと思い、私たちは、まず患者さんたちの声を行政に届ようと、近畿の再生不良性貧血の患者のグループに呼びかけてし署名を集め、去年の2月に、アピール文とともに厚生省に届ました。

 そして次に、臍帯血を提供する私たちの側の署名に取り組み、10人、20人の勉強会から100人、200人の勉強会まで、各地で草の根の勉強会を開き、臍帯血移植の理解を訴えながら10万人署名の運動を起こしていきました。

 その一方で、超党派の国会議員で作る血液事業研究議員(世話人=笹川堯、家西悟氏)にも応援を依頼、7月には小泉厚生大臣(当時)に直接アピール文を届けることができました。

 そのとき小泉厚生大臣から、

「そんないいものがあるとは知らなかった。それは大事な問題だから、政治家として応援します。大臣を辞めてもやり遂げます」

 という返答もらいました。私は、日本の政治家もちょっぴり見直した気分になりました。

 その同じ7月、東京でボランティアの全国大会をやりました。東京と関西を中心とする若い母親グループが中心で、まだまだ小さな集まりでした。そこに、公明の浜四津敏子さんが駆けつけてきてくださったのです。そして同じ産む性としての女性として私たちの運動に理解と共感を示してくださり、全面的な公明の協力を得ることができるようになりました。

 10万人を目指していた私たちの署名運動が、一挙に100万人という数字に盛り上がり、最終的には200万人を超える大きな上にまで発展したのです。そして、和歌山県田辺市議会を皮切りに、厚生省に対する地方議会からの意見書も相次ぎ、結果的には450にものぼる数になりました。その多くは、公明の地方議員の方々が中心になったと聞いています。

 そうした公明の運動の展開の中で、私たちの公的臍帯血バンク設立に向けての運動が国民的な運動になると同時に、公明の支持母体である創価学会の若い母親たちが主体的に私達のを運動を支えていてくれたのです。

 運動の広がりを実感した私たちは、臍帯血バンクのシステムを現実にアピールするためにも、モデルになるバンクを作ろうと、9月に東京臍帯血バンクを立ちあげました。

見え見えだった厚生省の意図

 あわてたのは厚生省の担当官だったと思います。

 大臣から指示を受け、国民的な世論にまで臍帯血移植への保険適用要求と公的臍帯血バンク設立の運動が盛り上がる中、平成10年の4月1日からは保険の適用もつけなければならない、公的バンクに対しても何らかの方針を打ち出さなければならないわけです。

 12月になって、厚生省は、今年の1月から臍帯血移植検討会を開くという決定をしました。それは、今までになく公開で行うというのです。しかも、ボランティアからも委員を選出したいということでした。

 私に委員という要請があったのはそのためです。

 この厚生省からの要請に対して、私たちボランティアの間では二つの意見がありました。ひとつは検討会に出で堂々と意見をいうべきだというものです。もうひとつは出るなという意見でした。

 後者の意見の人たちは、検討会といっても名ばかりで、どうせ出来レースだ。結論は厚生省の考えたとおりにしかならない。委員として出席していたら、後で「これを決めた時には、有田もいた」と、うまくアリバイづくりに利用されるだけだ、といいます。

 私も、かつて骨髄バンクの検討会の時に、一度だけオブザーバーとして出席したことがあります。だから、厚生省の検討会の雰囲気も知っているし、アリバイづくりに使おうとしているということも想像がつきました。

 しかし、委員として出ていこうと決めたのです。それは、もし厚生省の思惑があるなら、それを私が崩さなければ署名に協力してくださった多くの人々の思いが無駄になると思ったからでした。さらに、公開での検討会だということが、私の背中を押す力になりました。委員は全員で19人でした。

 今年の1月19日にあった第1回目の検討会に出て、私は厚生省の意図がよくわかりました。厚生省は、臍帯血バンクを作るのなら、すでにある骨髄バンクと一緒にしたい形にしたいと考えているようでした。

 実際には厚生省は案というものは出さず、骨髄バンクの関係者が出した案に対する説明を一生懸命にするというやり方です。実に卑怯なやり方だと、私は思いました。

 しかし、それは絶対に許せないことです。骨髄バンクと臍帯血バンクはシステムの全く違います。システムの違うものを一緒にするということには無理があるし、だいいち現在の骨髄バンクはすでに経営的に倒産しかかっているのです。それを同じ組織にしたいというのは、臍帯血バンクと一緒にすることで骨髄バンクの経営的な再生を意図しているとしか思えません。

 私は、臍帯血バンクは独自にスタートさせなければ、署名の主旨にも書かれた透明な運営と患者の公平な受益という基本にも反してしまうと、考えました。その方向に議論を動かしていこうと積極的に意見をいうのですが、いつも議論にはなりません。

 私が意見をいうと、座長は、

「○○先生。どうでしょうか」

 と、あらかじめ予定していた委員に意見を求めます。すると、その委員は、

「私は、そちら(厚生省案)の意見に賛成です」

 と、答えます。そのとき点で議論は終わり、私の意見は少数意見ということになってしまうのです。出ている意見の多くは、私と同じものであってもです。

 それはいつの会議でも、同じことでした。私は7回目の会議までに2回も、局長に対して、検討会の議論の運営の仕方がなっていないという意見を出しました。傍聴に来てくれていた若い母親の皆さんも、ファクスで、厚生省や座長に対していろいろな意見を送ってくれていたのです。それでも検討会は変わりませんでした。

 私は、ついに座長交代の要望まで出しました。それ以降、ようやく議論らしき議論ができるようになりました。

患者本位のバンクを目指して

 ところが、5月26日に行われた第7回目の検討会の時のことです。厚生省が出してきた「中間まとめ」のたたき台の中に、「造血幹細胞バンク」という字句が多数意見とし多数意見として入っていたのです。

 これは、骨髄バンクばかりか、あの末梢血造血幹細胞移植も含めて、同じバンクを作るというものでした。末梢血造血幹細胞については議論さえしていないことでした。なのに、どうして末梢血造血幹細胞などというものまで出てくるのか、理解に苦しみました。ここまで末梢血造血幹細胞にこだわるのは何か裏の事情でもあるのかなと、勘ぐりたくなってきます。私の中にある「なぜ?」という疑問は、ますます大きくなっていきました。

 この時は、他の委員からも、末梢血造血幹細胞に対する疑問や検討会の上に対する疑問が投げかけられました。

 また、このたたき台には「受益者負担」という言葉が、突然、出てきました。とんでもないことです。この事場を「中間まとめ」に入れるたら、この臍帯血移植を受ける患者の負担がどのような形なるかわかりません。

 これに関しては傍聴席からも強いブーイングが出て、それは日本の健康保険制度自体にも抵触してくる問題だというところまで議論がいき、ついに取り下げられたのです。

 その中で、ある委員がポロッと、

「この検討会は公的バンクを作らない検討会ですから・・・」

 という言葉をもらしました。

 厚生省の意図はそこにあったのかと、幽霊の正体を見たような気になりました。

 この検討会を、公開にし、私のような市民を委員に入れたことは評価できるとしても、厚生省のやり方自体は密室で行っていた検討会のやり方、つまり事前の根回しで落としどころを既成事実化していく手法を踏襲していたのです。ところが、その方法は、公開というシステムに合わなかったのでしょう。

 傍聴人の圧力をはじめ、私たち何人かの委員の努力によって、「中間まとめ」は結果的に厚生省の意図するものとは大きく違うものになりました。

 だからこそ、ここで安心するのではなく最終報告が出るまで、本当に患者本位の公的臍帯血バンクになるかどうか、多くの皆さんに監視を続けてほしいと、私は思うのです。

 私も臍帯血移植の特色を生かした新しい形の公的バンクが現実にできるまで、多くの市民の方々とのネットワークをさらに深めながら、監視を続けていこうと決意しています。


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