My Opinion N-system 
憲法20条と政教分離に関する私見

憲法20条の解釈をめぐって、従来の憲法解釈を大幅に逸脱した解釈を行い、宗教団体に属する人の基本的な人権まで犯そうとする勢力が台頭してきています。
これまでの論議を踏まえて、憲法20条に書かれた政教分離規定に関しての私見をまとめてみました。
よろしくご批判ください。


日本国憲法の条文(抜粋)


第14条【法の下の平等】
@すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

第20条【信教の自由】
@信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
A何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
B国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第21条【集会・結社・表現の自由】
@集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

第89条【公の財産の支出又は利用の制眼】
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。



   憲法の政教分離規定は、基本的人権として憲法に保障されている信教の自由を保障せんがための規定です。憲法第20条には第一項前段で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」、第二項で「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」と規定し、信教の自由を保障しています。

 さらに信教の自由を実質的なものとするためこ、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」(第一項後段)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」(第三頃)と規定しています。

 この規定全体の趣旨について、1994年秋に、大出内閣法制局長官は「国権行使の場面において、国及びその機関が宗教に介入し、または関与することを排除するという見地から政教分離を定めている」との見解を示しています。  つまり、憲法の文脈は、一見すると宗教団体を規制しているかのように読めますが、名あて人は国・地方公共団体であり、公権力を行使する人に対する規制の規定ということになります。

 そこで、憲法第20条「いなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」との規定の中の「政治上の権力」とは何かということが問題になります。

 ここにいう「政治上の権力」とは、私たちが日常使うような「政治的に強い影響を与える」という意味とは全く違います。憲法は法律の中の法律ですから「政治上の権力」の意味は厳密に特定されています。大出内閣法制局長官は「なかなか条文が読みにくい形の条文になっている」と注意を喚起しながらも、憲法制定議会の金森国務大臣の、それは「国から授けられて正式な意味において政治上の権力を行使してはならぬという趣旨のものである」との答弁を引いて、「国や地方公共団体から統治的確力の一部を授けられて、そして行使をする、そういうことはいけないと、こういう趣旨だと理解いたしております」と明決に答弁しました。

 「政治上の権力」とは、政治的影響力の意味ではなく、国や地方公共団体が独占する「統治権」の意味に限られ、それを超えて「政治上の権力」をそれ以上の一般的な政治的影響力のことを指すかのように議論するのは、憲法制定時の政教分離規定の趣旨とは著しく違うものであることが明白になりました。

 「統治権」とは、具体的にいえば国や地方公共団体の立法権、課税権、裁判権、公務員の任免権、同意権、戸籍の編成権などの統治的権力を意味します。従って、この規定は国や地方公共団体が特定の宗教団体に「政治上の権力」を授けて、宗教団体がそれを行使することを禁止しているということです。

 したがって、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とは、宗教団体を規制しているように見えますが、国など公権力を規制している条文であることが明白になります。

 大出長官は憲法の政教分離規定の全体の場面設足を、「国及びその機関が、国権行使の場面において、宗教に介入し、または関与することを排除する」という規定だと言っているのです。

 実際、国や地方公共団体が、課税権、裁判権、立法権、公務員任命権、戸籍編成権など「政治上の権力=統治権」を特定宗教団体に対して「授け」(授権)なければ、宗教団体はそれを行使することはできません。ですから、国や地方公共団体に対して宗教団体にそれらの統治権力を授権することを封じたのです。条文全体の名あて人は宗教団体ではなく、国や地方公共団体などの公権力です。

 この「政治上の権力を行使してはならない」を読み間違えなければ、憲法の政教分離規定は、信教の自由が目的、政教分離は手段、と分かります。

 こうした基本を踏まえて考えますと、「創価学会等の宗教団体が一つの政党を支援するのは政教一致であり憲法違反ではないか」という意見を、自民党を始め社民党の政治家がよく発しますが、その意見の根拠は、「いかなる宗教団体も……政治上の権力を行使してはならない」という憲法の規定を誤って引き合いに出していることがよくわかります。

 政教分離原則の解釈を逸脱し、宗教団体の政治活動を排除した規定であるとする誤った認識の典型的な例です。自民党の、執拗な国会質問の根っこにも同様の認識があります。

 政府は、政教分離原則の趣旨は「宗教団体の政治的活動を排除するということまでを含んではいない」(大出内閣法制局長官)と明確に見解を示しています。従って、宗教団体の政治活動は「政教一致」などでは決してありません。逆に、もしも宗教団体であるがゆえに政治活動は禁止ということになれば、信仰を持っていることを理由にして、政治活動の自由を差別的に奪うことになります。自民党などが宗教団体を根拠もなく攻撃することこそ憲法の「法の下の平等」という原則に違反する問題となってきます。

 宗教団体が、その教義に基づき反戦・平和、環境問題など一定の政策を持つことは憲法上、何の問題もありません。政教分離原則では宗教団体の政治的活動を排除していませんし、憲法21条のいわゆる表現の自由の一環として、教義に基づき一定の政策を持つことも問題はありません。

 例えば「生命の尊厳」といえば、それを脅かすもの、核兵器の廃絶を訴えたり、戦争を許さない、福祉政策の充実を働き掛ける。こうした営みは宗教団体に当然、認められるべきものです。宗教者および宗教団体が信教の自由を守る政治的な闘いはもとより、福祉政策が貧困であるとか、政治に問題があるといった場合、社会の変革を訴え、政治的な発言をするのはごく自然の道理でしょう。

 憲法に照らせば、信仰をしていても、していなくても、団体であれ、個人であれ自分の所信に従って、自主的な選挙支援や政治活動をすることは、平等に保障され、尊重されるべき堂々たる基本的な権利といえます。

 さらに、宗教団体が「政策実現するために特定の候補者を推薦・支持することも認められてています。

 宗教団体の政治的活動は憲法で保障されています。さらに、表現の自由の一環としても尊重されるべきものです。この「政治的な活動」という言葉の定義について、政府は「宗教団体に許されている政治的な活動の中には、選挙運動も含まれる」(大出内閣法制局長官答弁)との見解を示しています。従って、宗教団体が特定の候補者の当選を得るために選挙運動をすることは憲法上、認められるということです。

 創価学会の選挙運動を指して、「政教一致」であると批判する自民党などの一部勢力の言い分は、政府の見解を無視した、嫌がらせにすぎないことがよく分かるでしょう。こうした批判は、「権力による宗教介入・関与を禁止している憲法の政教分離原則への無認識から生じているものであり、全く筋違いの話なのです。

 憲法による信教の自由の保障とは、宗教団体があらゆる社会活動、政治活動において、不利益で差別的な扱いを受けてはならないという保障が現実の上で生かされなければ、本当の信教自由が守られているとは言えなくなるでしょう。

Last Up Date: Copyright Yosihiro IDE e-mail:y_ide@jsdi.or.jp

参考資料: ◎桐ケ谷 章さんとの対談。 (創価大学法学部教授。宗教法を専攻。東京大学大学院修士課程修了。弁護士。宗教法学会監事。53歳。著書に『信教の自由について』、『平和憲法を護るために』(編著)、『信教の自由を考える』(共著)、『政治と宗教を考える』(同)など。

      ◎アメリカ連邦最高裁判所判例に見る「信教の自由」と「政教分離」:塩津 徹(1948年静岡県生まれ。早稲田大学法学部、同大学大学院政治学研究科単位取得。創価大学比較文化研究所助教授。比較憲法専攻。著書に『信教の自由を考える』)


井手よしひろホームページに戻る
ご意見・情報をお送りください