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[96言の葉紀行]向日葵 茨城・日立市

1996/8/16大阪読売夕刊よりの転載
花樹の会会長・古田土勇さんが紹介されました

 ◆焦土に乾く心 希望くれた一輪 反戦語り継げ◆

 とりわけ長く深い祈りが列島を覆った戦後五十年の八月十五日が過ぎた、その夏の果て、茨城県日立市の街を黄色に染め上げた向日葵(ひまわり)の花心から一粒一粒、種を採りながら、古田土勇さん(64)は呟(つぶや)いた。

 「終わったんじゃない、これから始めるんだ」

 鹿島灘に面した日立市は、敗戦の年の六月十日、軍需施設だった日立製作所が狙われ、一トン爆弾五百発を浴びた。七月には艦砲射撃を受け、二日後には焼夷弾(しょういだん)。三度の攻撃で、街は七割が灰となり、千三百五十人の命が散った。

 旧制日立中の一年、十三歳だった古田土さんは、海で泳ぎ、山で戦争ごっこに明け暮れた同級生の関山君と小沢君を失った。野辺の送りもできなかった。父が勤めていた日立の社宅も焼け落ちた。父と工場に通い、犠牲になった六百人の遺体を運び出し、一体一体、校庭に並べた。初めて黒焦げの亡骸(なきがら)に触れた。おびただしい死が感覚を麻痺(まひ)させた。  

 「流す涙さえなかった。それが心底哀(かな)しかった」

 霞ヶ浦の海軍航空隊の七つボタンに憧(あこが)れた少年の心に、「無常」が澱(おり)となって残った。

 戦後、中学教師の職を得た。六月十日には授業を割き、死の重みと生のはかなさを話して聞かせた。だが、時の流れは過酷だ。子供たちに伝わらない歯がゆさ、話し尽くせない自身へのもどかしさを覚えた。

 校長で退職し、公民館長に就いた三年前の春、街に桜を植樹するグループ「花樹の会」の会長に請われた。一昨年の暮れ、会の集まりで、戦後五十年の年に自分たちにできることは何かと、みなで自問した。古田土さんが切り出した。

 「祖母に連れられて毎日、焼け野原に立ちました。食いたかったら、生きて行きたかったら畑を耕せと言われ、まだ熱が残る焦土に鍬(くわ)を振るいました。そこに向日葵が咲いていたのです。大人より背丈の高いのが、あちこちでたくましく、毅(き)然と立っていました。鮮烈でした。自分も這(は)い上がらなければと思いました。勇気を与えてくれた花なのです」

 同い年の河合雄さんも、疎開先へ急ぐ山道に咲き誇っていた向日葵の生命力が忘れられない、と言った。あの夏のように向日葵を咲かそう。会員七十人の総意で決めた。二十万人市民の一人ひとりに届けられたら。二十万本の花づくりが始まった。

 会員で、造園業の林功生さん(57)の敷地が苗作りの拠点になった。八月十五日に照準を合わせ、六月半ばに一斉に種をまいた。茎が十センチほどに伸びた七月一日、五万本の苗を市民に配り、十一万本は公園や街路沿いに植え、四万本分の種は、市内二十三校一万三千人の小学生に託した。

 駅前にある銀座通商店街で洋装店を開く、野口みよ子さん(66)は、店先で十鉢、五十本を育てた。

 艦砲射撃の夜は、看護婦として勤め出したばかりの病院の寮で迎えた。部屋で震えながら布団にくるまって、明け方の光の中で見たものは、首を、手足をもがれた四、五人の変わり果てた姿。飢えをしのぐため向日葵の種を、一粒一粒かみしめて一緒に食べた先輩たちだった。戦場となった病院で、爆弾の破片が全身に突き刺さった痛みに耐えかね、白衣のすそをつかんで、「殺してくれ」と叫ぶ人たちも見た。「施すすべを持てなかった自分が悔しかった」。十五歳の少女の心に、無力感が広がった。

 「つらくても、胸に刻み続けなければ」。野口さんは逝った仲間たちの顔を浮かべながら、いとおしむように鉢に水をやった。

 戦後五十年のあの日が近づくにつれ、古田土さんも河合さんも林さんも、向日葵の夢を見た。願いをかなえるように、二十万本はそろって、民家の庭先で、日立の工場の寮で、市街を見下ろす神峰公園で、校庭で、そして、道端でいちどきに満開となった。「水戸の白梅、日立の桜」。春、ピンクに染まる街は八月十五日、黄一色に埋まった。

 「何もかも失ったときに、一輪の向日葵が希望の太陽のように見えた」「花がこれほど美しいものかと気づいた日が、あの日だった」。父母から子へ、祖父母から孫へ、その夏、戦争が日立の街のあちこちで語られた。花樹の会には、「今度は、種から育てたい」と申し出が相次いだ。

 「言葉は人の心を通り過ぎてしまうかもしれない。でも、花は心の中に生き続けていくのですね」

駅前広場での花樹の会 言葉に勝る力を花は持っているのだと古田土さんたちは知らされた。五十年の節目のためのものだけで終えてはいけない。植え続けることが、戦争を人々の記憶にとどめさせることになるのではないか。五十年後から始めるんだ。向日葵に託して伝えよう。そう、思った。

 五十二年目の夏が巡ってきて、会員たちが新たに育てた五百本の苗、道端にこぼれた種、民家で穫(と)られた種が、去年にも負けない大輪の花をつけた。

 戦争体験者と、若い世代をつなぐように、向日葵は途切れることなく、日立の街に咲き続ける。

             

 《季わーど》向日葵

 キク科の一年草で、北米産。花の直径四十センチ、丈三メートル以上のものもあり、種子から食用油がとれる。南仏やユーゴスラビアの向日葵畑が有名。日本には江戸時代初期に渡来。別名、日車、日輪草。太陽の動きに合わせて花が回るという説が名前の由来だが、実際は他の植物と同じく光線の強い方向へ向くだけ。
 ゴッホの連作やソフィア・ローレン主演の映画にみられるよう芸術のモチーフとしても愛され、日本でも「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」(前田夕暮)、「向日葵の大声で立つ枯れて尚」(秋元不死男)など、多く詠まれている。

 受け継がれた向日葵が、街角で戦争を問いかける

以上 文・持丸 直子


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 最終更新日時: 1996/8/31