中山信吉
なかやま のぶよし)1577年〜1642年
 





徳川光圀(水戸黄門)を水戸藩の二代目藩主に選んだ水戸藩附家老

 ドラマでも全国民に知られる水戸黄門こと徳川光圀ですが、光圀が水戸藩の藩主となるうえで大きな役割を果たしたのが、この中山信吉です。彼の職は、水戸藩の附家老。そもそも附家老とは何でしょうか?中山信吉はどんな人物だったのでしょうか?



家康の信頼の証し―御三家附家老―
 
 「御三家」という言葉をご存知の方も多いことでしょう。徳川家康は関ヶ原の戦い勝利の後、政権を図り、最近親者を大名に取り立てました。「御三家」はその結果として、後世定着したものだそうです。
 家康はそれら三家、九男義直を尾張に、十男頼宣を紀州に、十一男頼房を水戸に配置しました。しかしまだ彼らは幼少のため、これら三人に信頼できる家臣を付けました。これらのうち「五家」と称され、別格の「附家老」として位置づけられたのが、尾張徳川家の成瀬氏と竹腰氏、紀伊徳川家の安藤氏と水野氏、そして水戸徳川家に付けられた中山氏です。
 彼ら附家老の果たした役割について、小山譽城氏は次のように解説しています。

「彼らは三家の内部で幕府のために働き、時には幕府と三家との潤滑油となって摩擦を未然に防ぎ、藩主を補導・監督する職務によって藩政を主導する存在であった。そのため、幕府にとっては幕藩体制の要石である御三家をコントロールする上で付家老の存在が不可欠であり、政治的に極めて利用価値が高い存在であったといえる」
(小山譽城 2006『徳川御三家付家老の研究』清文堂,p.58)

立場上藩内の家臣でありながら、幕府が全国を治めていくうえで附家老たちの役割はとても大きなものだったことがよくわかります。
 さらに磯田道史氏は、同時に附家老たちが幕府への強い影響力を持っていたことを次のように述べています。

「徳川家は、徳川将軍が動かしているのかといいますと、将軍が代替わりするときには、御三家の頼宣や頼房たちの子孫がみんなで雁首を揃えて、次の将軍を誰にするか、老中も誰に任せるかというような人事を決定します。そうすると、水戸藩主や、尾張藩主、紀伊藩主自体が政治を動かすのかというとそうでもありません。実際に裏から情報を入れ、それを指示しているのが、三家の附家老なのです。日本全国の情勢なり、徳川幕府のあり方というものに対して、三家の附家老というのがすごく大きな発言力をもたらすことになっているわけです。」(磯田道史 2011『中山備前守信吉』高萩市教育委員会生涯学習課,pp.18-19)

これほど大きな意味のある役職である“附家老”。では、水戸藩初代附家老となった中山信吉とはいったいどんな人物だったのでしょうか?


中山信吉について詳しく知りたい方は・・・

『中山備前守信吉』(磯田道史 2011)

西暦
年号
1577
天正五
中山信吉誕生。
1590
天正一八
八王子城の戦い、中山勘解由家範死去。
信吉、兄の照守と共に家康に召し抱えられる。
1603
慶長八
伏見城に入った盗賊を捕まえる。
1607?
慶長一二
信吉、駿府城の火災に際し、適切な対応をし、家康脱出を助ける。
1607
家康、十一男頼房に信吉を付属させる。
信吉、6500石を領する。
1608
慶長一三

信吉、頼房の傅となる。
家康の許しを得て旧北条氏の遺臣から17人を召し抱える(八王子十七騎)。
1万石に加増される。
1609
慶長一四
家康、十一男頼房を水戸藩藩主とし、信吉を附家老に任ずる。
信吉、1万5000石に加増される。
1610
慶長一五
信吉、水戸に来て政令を敷行う。
1614
慶長一九
頼房、大阪の役に際し駿府の留守を命じられる。
信吉、家康より頼房の守護に命ぜらる。
1615
元和元
従五位下備前守に任ぜられる。
1616
元和二
家康、死去。
1617
元和三
信吉、頼房に付き日光山へ向う。
1621
元和七
信吉、蘆澤信重・村瀬左馬介重治と共に、水戸東照宮廟前に石塔臺一基を献上する。
1622
元和八
松岡城主戸沢政盛、出羽へ転封となる。松岡は水戸藩へ編入される。多賀郡松岡は信吉の采地となる。
1628
寛永五
光圀、誕生
1633
寛永一〇
頼房、信吉を水戸に遣わし、世子を選ばせる。
信吉、光圀を世子と定める。
1642
寛永一九
正月6日、信吉死去(享年65歳)。二代信正が家督を相続。
1646
正保三
信正、多賀郡内に采地を移され、松岡を居館をとする。

主な参考文献
(沼澤佳子 2012、磯田道史 2011、高萩市生涯学習推進本部編 2001)

中山信吉略歴

 1590年、時の権力者である豊臣秀吉の小田原城攻めが行われました。小田原城の出城の一つであり、戦国時代最大の山城であった八王子城。城主は北条家四代当主・北条氏政の弟、氏照です。小田原城につめていた城主・氏照に代わり留守を守り、かつ秀吉配下の前田・上杉の大軍の総攻撃に面しても最後まで戦い抜いたのが中山勘解由家範でした。
 その武勇、主君北条氏への忠義を伝え聞いた家康は、落ち延びていた家範の二人の子を探し出して召し抱えました。長男は照守、そして次男が後に高萩市の松岡城主となる中山氏の祖・信吉です。

 家康に召し抱えられた信吉には、次のような逸話が残っています。

 慶長の初め、家康伏見に在りし時、盗群臣と雑居し、佩刀を竊(ぬす)まんとす。信吉之を見て、赤手に之を縛せり。群臣其勇に服す。家康黄金を賜わり、其功を賞せらる。信吉賊を獲し者、某(それがし)一人にあらず、願くは皆之を賞せられよと言う。家康首として賊を獲し者は汝なり、必ず辞退すること勿れと言わる。(『名将言行録』)

 また、信吉の機知を示す話も伝えられています。

 慶長中、駿府火災あり。松平大隅守重勝大門を守り居たり、時に事倉卒に起り、門閉じて開かず、依て士衆雑沓し、婢女多く死せり。家康之を避けんとす。村越茂助直吉、家康に向い、大門開かざるに付、士衆の擾乱(じょうらん)甚だしければ、廚門より避けらるべしと言う。時に信吉中門を守り居しが掲るに提燈を以てし、隊伍列を為し、秩然として乱れず、家康大に感稱し、乃ち廚門より出でられたり。(『名将言行録』)

このような働きと忠節心から、信吉は家康の大きな信頼を得るようになったようです。

 そして信吉は、家康の十一男頼房のもと附家老に任じられました。幼少の頼房が水戸藩の藩主として成長できるようその行く末を託すという重要な役割は、家康の信頼を大きく示しています。
 頼房が若いころ、「殊の外伊達を好み」派手な格好と行動が江戸城内で問題視された時には、命を賭して頼房に改心するよう願い出たという逸話も残っています。

 そんな信吉の後世に残る大きな働き、それは水戸藩の二代目藩主を選んだことです。
 頼房には子が多かったものの、跡継ぎを定めていなかったようです。将軍家光の命により、信吉が子どもたちを一堂に集め跡継ぎを定めることになりました。その時のことが次のように伝えられています。

 諸子皆修飾して出たり。光圀時に年六歳、信吉を見て呼ぶに翁(おじじ)を以てし、直ぐに盤上の打鰒を把り之に賜う。信吉大に喜び、真に吾郎君なりと言て、乃ち帰り家光に申し、遂に光圀を立て世子と為せり。(『名将言行録』)

皆が世継ぎになるため飾り立ててきたなかで、信吉に向って「おじじ」と言い、打鰒を差し出した光圀の豪胆さに将来性を見て取ったのでしょうか。どこまでが史実かは分かりませんが、光圀の素質を見抜いた信吉の興味深いエピソードです。
 もちろん光圀は、『水戸黄門』で知られるような諸国漫遊を本当にしたわけではありません。しかし、『大日本史』と呼ばれる歴史書編纂の大プロジェクトをはじめとした様々な文化活動を行い、政治においても水道敷設や寺社改革など後世に残る大きな働きをしました。そのような光圀の働きは、中山信吉の英断なくしては生まれなかったのかもしれません。
 



中山信吉 関係所蔵資料(一部)

人物全般
磯田道史 2011『『附家老の果たした役割』中山備前守信吉』高萩市教育委員会生涯学習課
高萩市生涯学習推進本部編 2001 『徳川光圀を水戸藩の二代目藩主に選んだ 中山信吉』高萩市生涯学習推進本部
高萩市生涯学習推進本部編 2009 『マンガで見る高萩三英傑』高萩市制施行55周年記念事業実行委員会
諸論考
茨城県立歴史館編 2000 『光圀―大義の存するところ如何ともし難し―』茨城県立歴史館 pp.18-21
茨城県立歴史館編 2011 『頼重と光圀―高松と水戸を結ぶ兄弟の絆―』茨城県立歴史館 pp.37-40
茨城県立歴史館史料学芸部編 2011 『常陸松岡中山家中 高橋家文書目録』史料目録55 茨城県立歴史館
江尻光昭 1988 「戸沢氏の国替えと水戸藩、棚倉領の分配」『北茨城市史』上 北茨城市 pp.281-384
小山誉城 2006 『徳川御三家付家老の研究』清文堂出版
鷺松四郎 1981 「松岡附の成立と中山氏の支配」高萩市史編纂委員会編 『高萩市史』上 国書刊行会 pp.460-571
鈴木一夫 1995 『水戸黄門の世界―ある専制君主の鮮麗なパフォーマンス』河出書房新社 pp.22-27
瀬谷義彦 1985 『水戸の光圀』茨城新聞社 pp.86-89
高萩市教育委員会生涯学習課編 2003 『高萩市の史跡・文化財』高萩市教育委員会 p.9
高野澄 1995 『実録水戸黄門』毎日新聞社 pp.24-25
但野正弘 1995 『若き日の水戸黄門』崙書房 pp.34-36
中山雅生 1998 『祖先の足跡を尋ねて』グループわいふ
沼澤佳子 2012 「水戸藩前期における付家老中山家の位置とその確立」『茨城県史研究』39 茨城県立歴史館 pp.1-34
読売新聞社水戸支局編 『水戸黄門千夜一夜』鶴屋書店 pp.22-25



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