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1、幽霊


 ――!
 ぼんやりしていたヒロシの前を白っぽい何かが横切った。
(な、何だ……?)
 慌てて周囲を盗み見たものの、ヒロシの他には誰も気付かなかったようだ。周囲の生徒たちの大半は退屈そうに歴史のビデオを見ている。
 二人の教師も気付いてない様子で、ヒロシは警戒しながらイスに座り直した。
(バカバカしい)
 昼間の学校で幽霊なんて出るはずがなかった。大体、幽霊なんて見るのは怖がっている小さな子供ぐらいで、ヒロシは中学一年生だった。
 それに、ヘタな幽霊より左目が義眼のヒロシの方がよっぽど薄気味悪がられていた。学校では決してサングラスを外さなかったが、ヒロシも色々ウワサされていることは知っていた。
(電子空間で暮らせたらな……)
 ヒロシは再びぼんやりする気にもビデオを見る気にもなれなくて窓の外を眺めた。
 ヒロシの曾祖父の祖母は人類最初の電子空間居住者の一人だった。残念なことに“コンピューター危機”という大事件のせいで人間は電子空間に住めなくなってしまったものの、ヒロシはまた人間が電子空間に住めるようになることを期待していた。電子空間に住めれば一生義眼を意識しないことだってできるからだ。
 もちろん、この学校でも孤立しているヒロシの秘密の願いを知っている生徒は一人もいない。
 一緒にビデオを見ている生徒たちは黒ずくめでやせているヒロシに関心を払ってなかったし、二人の教師もヒロシのことを“扱いが難しい生徒”としか見ていなかった。
 窓の外には今日も暑くなりそうな十月中旬の青空が広がっている。温暖化が始まった三百数十年前の十月はもっと涼しかったらしいが、ヒロシには昔のことすぎて想像できなかった。
 そして、ヒロシが聞いているビデオは戦後に始まった東京湾岸再生計画に差し掛かっていた。
(“アダムの遺産”が本当にあればな……)
 都市伝説だったものの、コンピューター危機を起こしたアダムの遺産を使えばその日からでも電子空間に住めるらしかった。
 ビデオが終われば何について調べるか発表しなければならないのに、ヒロシは空を眺めたまま電子空間に住むことばかりを考えていた。
 すると、またヒロシの前を白っぽいものが横切った。
 ――!
「どうかした?」
「……な、なんでもないです」
 ビクッと身体を震わせたヒロシはすぐそばに来ていた女性教師に慌てて振り返った。
「なんでもないです」
「そう? じゃあ、調べたいことは決まった?」
「まだです」
「じゃあ、ビデオは後五分くらいで終わるから、良く考えてね」
 科目担任でもある女性教師は軽く注意しただけでスクリーンのそばに戻った。ヒロシの様子に気付いたのは女性教師だけのようだったが、ヒロシが見た白っぽいものにまでは気が付かなかったようだ。
(まさか……、見間違いか、気のせいに決まってる)
 ヒロシはビデオを見る振りをしながら自分を叱り付けた。人のような形をしていたのは気のせいで、光の加減か何かで見えた外の反射を見間違えただけだと自分に言い聞かせようとした。
 でも、すぐにそれでは最初に見たときのことを説明できないと気付いて、ヒロシは自信が揺らいだ。
 最初に見たとき、ヒロシは外を見てなかったのだから外の反射というのはあり得なかった。それに、ヒロシは義眼がモニターされていることを誤解されて、いじめらしいいじめを受けたこともなかった。いたずらされたこともないくらいだった。
 そのため、ヒロシはもう一度周囲を盗み見て原因になりそうなものを探した。
 一緒にビデオを見ている生徒たちの持ち物や服装、ロッカーや帽子掛け、観葉植物、校舎中央の吹き抜けを取り巻いている通路に他の科目を受けている生徒たちまで見たが、原因になりそうなものは見当たらなかった。強いて言うなら誰かが帽子掛けに掛けた紫外線除けのサマーコートの感じが似てなくもなかったが、ヒロシはすぐにその考えを頭から追い払った。
(人の形をされててたまるか)
 ヒロシがいるのは昼間の学校で、周囲にはたくさんの生徒と教師がいるのだ。原因が分からないからといって人の形をしていると思うのは大間違いだとヒロシは自分を無理矢理納得させた。
 そして、さすがにヒロシも何を発表するか考えようとしたところで、三度白っぽい人の姿がヒロシの前を横切った。
「うわあああ!!」
 突然大声を上げて立ち上がったヒロシに周囲の注目が集まった。
「フジムラ君、どうかしたの!」
「なんでもありません!」
「なんでもないわけないでしょ? いきなり立ち上がったりして」
 駆け寄ってきた女性教師はヒロシの肩に手を置いてヒロシを落ち着かせた。
「とにかく座って。それとも、他の場所の方が良い?」
「……大丈夫だからほっといてください」
「そんなわけいかないでしょ。いいから座って」
 白っぽい人の姿はもう見えなかったが、ヒロシは冷や汗までかいてしまっていた。
「一体どうしたの? さっきから様子がおかしかったじゃない」
 女性教師はヒロシが落としたタブレットパソコンを拾いながらもう一人の教師に頼んで授業を続けさせた。他の科目の教師たちも授業を再開して、吹き抜けの反対側からのぞいていた生徒たちの顔も見えなくなった。
「……本当になんでもないですから」
「そう言われても急に立ち上がったりした理由を説明してくれなきゃ」
「ちょっと驚いただけです」
「『驚いた』だけ?」
「…………」
「じゃあ、なんで驚いたの?」
「……本当になんでもないですから」
 イスに座り直したヒロシは女性教師から目をそらすように繰り返した。しゃがんでヒロシの顔を見ている女性教師は困っている様子だったが、白っぽい服を着た半透明の女の人が見えたなんて言えるはずがなかった。
「……フジムラ君、私にはフジムラ君が『ちょっと驚いただけ』とは見えなかったけど、本当に大丈夫なの?」
 女性教師は下からのぞき込むようにヒロシの顔を見詰めた。ヒロシは言えるはずがなくてかたくなな態度を崩さなかったから、女性教師と無言のまま数秒にらみ合った。
 すると、女性教師はこれ以上の追究をあきらめた様子で立ち上がった。
「……じゃあ、私はこれ以上聞かないから、念のため養護のヒュウガ先生に診てもらってちょうだい」
「え!?」
「フジムラ君は退院したばかりなんだから、何かあったりしたら大変でしょ」
「必要ありません!」
 驚いたヒロシは顔を上げて抗議した。相手が誰だろうと、ヒロシは女の幽霊にほほえまれて取り乱したなんて知られたくなかった。ヒロシだって、今日まで一度も幽霊を見たことがなかったのだ。
「どこも悪くなんてありません!」
「でも、様子がおかしかったのは確かでしょ?」
「そうだとしても、もう平気です!」
「断言できるの?」
 振り返ってヒロシを見下ろす女性教師に反論しようとして、ヒロシは一瞬だけ幽霊の顔が女性教師に重なって見えた。実際に見たわけではなかったが、ヒロシは幽霊の顔をはっきり見てしまったことを思い出した。
「……どうかしたの?」
「なんでもありません……」
「やっぱり、診てもらった方が良さそうね」
 女性教師は再び目をそらせてしまったヒロシを見て、ちらちらと二人を気にしている生徒たちに向き直った。
「保健委員か学級委員はいる?」
「保健委員はあたしです」
 生徒たちの中から黒っぽいキャミソールを着たショートボブのマコトが立ち上がった。近くに座っている女子生徒たちは引き止めようとしたみたいだったが、マコトは気にしなかった様子だ。
「他には?」
「いません」
「じゃあ、ヒラタさん。フジムラ君を保健室まで連れていってあげて」
「分かりました」
「フジムラ君も一人で歩けるでしょ?」
「……一人で行けるし、診てもらいたくありません」
 ヒロシはうつむいたまま抗議を続けたものの、女性教師は無視した。
「フジムラ君の意見は分かったけど、私が『なんでもない』って安心したいの。フジムラ君が立ち上がったりした理由を説明してくれないんだから仕方ないでしょ?」
「…………」
「ほら、早く立って。一人で歩けるんでしょ」
 ヒロシが黙っている間に近付いてきたマコトにも言われて、ヒロシは仕方なさそうにゆっくり立ち上がった。ヒロシとマコトはほぼ同じ身長でも、いつもうつむき加減のヒロシはマコトより少し小柄に見えた。
 立ち上がったヒロシは待っているマコトとも女性教師とも目を合わせようとしないで一人だけ保健室に向かおうとした。
「ちょっと、勝手に行かないでよ」
「……だったら早くすれば良いだろ」
「何その言い方。アンタ、ホントはわざと騒いだんじゃないの?」
「そんなことするか」
「だったら、なんでそんなに勝手なことするのよ? わざとじゃないなら説明すれば良いでしょ?」
「……アンタには関係ないだろ」
 ――!
 ヒロシがマコトと目を合わせないまま言い放った瞬間、女性教師が割って入った。マコトはヒロシと違って友達が多かったから、ヒロシの放言はその友達にも敵意を振りまいたのと同じだった。
「フジムラ君! 今の言葉は言いすぎでしょ! 付いてきてくれるヒラタさんに失礼よ!」
「……すみません」
「謝るのは私にじゃないでしょ」
「……ゴメン。
 先生、さっさと行ってきて良いですか?」
「フジムラ君!」
 女性教師はマコトを一瞥して謝っただけのヒロシを引き止めようとしたが、マコトの友達を始めとする生徒たちが騒ぎ始めてしまった。女性教師はもう一人の教師と共に生徒たちを落ち着かせるのに手一杯で、立ち尽くしているマコトに声を掛ける以上のことができなかった。
「ヒラタさん、フジムラ君に付いてって。フジムラ君には後でもう一度よく言っとくけど、フジムラ君がちゃんと保健室に行くかどうか見ててほしいの」
「……分かりました」
「見届けたらすぐに帰ってきて良いから」
「はい……」
 女性教師にうなずいたマコトは友達にヒロシの放言を気にしてないと手を振ってからヒロシの後を追った。もちろん、気にしてないはずがなかったが、マコトは怒り以上にヒロシがなぜそこまで周囲の人類を嫌うのかと思った。友達はヒロシが周囲の義眼でない人類をねたんでいるからだと言うものの、マコトは一つだけ確かめたいことがあった。
(あたしの秘密に気付いて嫌ってるわけじゃないよね?)
 ヒロシに放言を浴びせられたとき、マコトはヒロシに軽蔑されて嫌われているような感じがした。
(気付かれてないよね?)
 ヒロシが義眼だろうとマコトの秘密に気付いてるはずがないと確かめたくて、マコトはすぐに小走りでヒロシの後を追った。

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