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 私が井上さんに不安を打ち明けた後、私は井上さんに少し休んだ方が良いと言われてパソコンから離れた。
『お嬢様、私のせいで大変申し訳ございません』
「いいのよ。気にしないで」
 私が答えている間に追い掛けてきたチョコがまた肩に登ろうとする。
「チョコもありがとう。さっきは無視しちゃってごめんね」
 私はしゃがんでチョコに手を差し出した。チョコはうれしそうに手によじ登って、私は見ているうちに心が和んだ。まだ枕を抱えたままだったけど、不安が薄れていくみたいだった。
 そして、チョコを肩に乗せた私は枕を元に戻してベッドに座り直した。
「斉藤さん、音楽止めてくれる?」
『かしこまりました』
「それから、斉藤さんがまだ現実とバーチャルについて同じと思ってるかどうか聞かせて?」
『良いのですか?』
「まだ同じと思ってるの?」
『いえ、私にとっては外部環境という点で違いはなくても、お嬢様方にはまったく違うものとお答えすべきでした』
「じゃあ、斉藤さんも私みたいに感覚が増えれば現実とバーチャルの違いが分かると思う?」
『はい、可能かと思います』
 斉藤さんはパソコン画面から答えた。
『なお、現実とはお嬢様方の身体が存在する空間のことで、バーチャルは現実を再現した空間のことと定義いたしましたが、よろしいでしょうか?』
「そうね、良いと思うわ」
 私は素早く考えてから答えた。特に問題はないように思えたし、斉藤さんの定義なら現実とバーチャルの間のはっきりした境界になると思った。
「だけど、これだけはっきりした定義があるなら、どうして斉藤さんにとっても違うものじゃないの?」
『それは私に守るべき身体がないからでございます』
「え、どういうこと?」
『私が考えましたところ、現実とバーチャルなど非現実を区別するのは身体を危険から守るためでございます。ですが、私にはその身体がありませんので、区別する必要もないのです』
「でも、斉藤さんがいるコンピューターとかは“身体”にならないの?」
『そのことについても検討いたしましたが、身体は原則的に専有物であることを考えれば適当でないと判断いたしました』
「うーん……」
 私は斉藤さんの返事に考え込んでしまった。分かったような分からなかったような、うまく言い逃れされてしまった気がした。
「……じゃあ、『外部環境』は現実とどう違うの?」
『私にとっての外部環境とは私が入出力を行う対象すべてのことでございます。現実は外部環境に含まれますが、バーチャルなど非現実も外部環境に含まれます』
 斉藤さんは迷いのない様子で言って私は返事に詰まった。斉藤さんにとっても現実とバーチャルが違うものだと分かってもらいたいのに、どうすれば良いのかさっぱり見当付かなかった。
 それで、私が必死に考えていると、今度は斉藤さんが尋ねた。
『お嬢様はなぜ私の考えにこだわられるのですか?』
「だって……、斉藤さんが現実とバーチャルを区別してないなんて落ち着かないじゃない」
『ですが、私はコミュニケーションソフトであり、人間ではありません』
「そうだとしても落ち着かないの」
『そうおっしゃいましても私にはどうにもいたしかねます』
「う〜ん……」
 私はどうして分かってくれないのだろうとじれったくてならなかった。斉藤さんは私と感覚が違っていても平気なんだろうかと思った。
「そうだ、斉藤さんはコミュニケーションソフトによって外部環境と思っているものが違っていても平気なの?」
『どういうことでございますか?』
「人によって現実と思ってるものが違ってたら困るみたいに、コミュニケーションソフトも困ったりしないのかって聞いてるのよ」
『そういう意味でしたら平気でございます。ごく当然なことで困ることではございません』
「どうして? 話が合わないでしょ?」
『そんなことはございません。私どもが使用している入出力装置には性能の違いがございますし、設置場所によっても認識できる外部環境に違いが出ることは当然でございます。ですから、違う場合はお互いが持っている外部環境のイメージを交換して統合し、新しいイメージを作るだけでございます』
「でも、いつもできるとは限らないでしょ」
『はい。拒否されることがありますし、新しいイメージを作れず、元のイメージが並立する場合もございます。ですが、禁止されていない限り拒否されることはありません。また、元々私どもが外部環境のすべてを認識できるとは想定されておりませんので、第三のイメージによって統合できると仮定して並立したまま新しいイメージといたします』
「…………」
 私は長々と説明する斉藤さんをにらんだ。なんでそんなに平然としていられるのかとイライラした。
「人間は困るの!」
『それは私にお答えできる問題ではないように思われます。井上様に相談された方が良いのではありませんか?』
「斉藤さんは私と現実と思っているもののイメージが違ってても平気なの!?」
『申し訳ございません。残念ですが、平気でございます』
「どうして!? また新しいイメージを作るだけだから平気だとでも言うの!?」
 私は我慢できなくなって声を荒げた。
「私は斉藤さんとイメージの交換と統合なんてしないからね!」
『もちろんでございます。私がお嬢様のお言葉とお振る舞いから私の持つイメージを検証、修正するのであって、お嬢様のお手を煩わせることなどいたしません』
 斉藤さんは真面目な顔ではっきり言った。
『そして、私どもコミュニケーションソフトがしているのとほぼ同じことをお嬢様方人間もなさっています』
「え?」
『お嬢様は不快に思われるかもしれませんが、外部環境を認識することも現実を認識することもほぼ同じでございます。人間が現実を認識するための五感にも個人差や欠損がございますし、生活環境などが違えば認識できる現実に違いが出ることはさけられません。そうなれば、会話などで現実と思っているもののイメージを交換、統合して新しいイメージを作ることは特別なことでございません』
「…………」
 斉藤さんに言われて、私は正論だと認めるしかなかった。私がみんな同じイメージを持っていると思っていたのは無意識にやっていて気付かないでいたからに違いなかった。
「……でも、私は斉藤さんが現実とバーチャルを同じに思っていることが不安なの」
『お嬢様がバーチャルに囲まれているために不安に思われていることは存じております。ですが、現実とバーチャルの定義ははっきりしており、バーチャルが現実になったりすることは決してございません』
「ホントにそう思う?」
『はい。私が外部環境をどう認識していようとお嬢様が不安になられる理由は一切ございません』
 斉藤さんは私を安心させるように少しだけ表情をゆるめた。
 その初めて見る表情は斉藤さんがコミュニケーションソフトだと分かっていても井上さんの笑顔と同じくらい安心感があった。私がどんなに混乱したとしても斉藤さんは絶対に私を助けてくれると感じた。
「……ありがとう。斉藤さんの言うとおりね。さっきは怒ったりしてごめんなさい」
『いえ、お嬢様が謝られる必要はございません。私こそ失礼なことを申しました』
「でも、斉藤さんに言われるまで現実と思っているもののイメージが人によって違ってるなんて考えもしなかったな」
『無意識にしていることをすべて意識していたら大変でございましょう』
「そうだけど、世の中にはいろんな人がいるって分かってたんだし、なんで気付かなかったんだろう?」
『難しい質問でございますね』
「今まで現実と“現実のイメージ”を区別して考えなかったからかな? 今まで区別してなかったから、現実も現実のイメージも一つしかないと思ってた」
 私は独り言のように言いながらチョコの頭をなでた。私と一緒に怒っていたチョコも少し落ち着いてくれたようだ。
「だけど、斉藤さんはどうしてそんなに割り切って考えられるの?」
『それは多分、二つの理由からでございます。一つは私が起動して間もないために固有記憶の蓄積が少ないこと。もう一つは私どもが認識ごとの評価点を変更することで呼び起こす認識を調整できることでございます』
「つまり……、どういうこと?」
『私が未熟なため予断が少なく、その予断も柔軟に変更できるということでございます』
「そうなんだ……」
 斉藤さんが「未熟」だなんて不思議な気がしたけど、予断が少ないというのは確かかもしれないと思った。
「じゃあ、斉藤さんはバーチャル――もしくは電子空間――に“生命”って存在すると思う?」
『「生命」でございますか?』
「そう。この肩のところにチョコっていう名前のハムスターがいるんだけど、くれた人はチョコのことを『新しい生命』って言ったのよ」
『どういうことでございますか?』
「その人が言うにはチョコはハムスターのアバターじゃなくて新型ウイルスなんだって」
 私の「新型ウイルス」という言葉に斉藤さんの表情が厳しくなった。
「あ、ウソだと思うから心配しないで。その人は自分が新型ウイルスを作ったとも言ってたけど、多分両方とも私を驚かせるための冗談だと思うの。その人、少しキザで偉そうだったから」
『さようでございますか』
 斉藤さんはほんの一瞬だけチョコの乗っている肩を見詰めてから答えた。今も見えてないみたいだったけど、私は余計なことを言ってしまったと思って尋ね返した。
「斉藤さんも新型ウイルスだと思う?」
『いえ、私が存じている新型ウイルスの特徴とは一致しないようです。また、私がお嬢様から任されているシステムにも異状は見られません』
「それなら良かった。それで、斉藤さんはバーチャルに生命って存在すると思う?」
『その前に、その方は生命をどう定義なさっていたのですか?』
「え?」
『その方は生命が存在すると思われていたからこそそのようにおっしゃったのでしょうが、私は現実に存在する生命の定義しか存じませんので』
「そうね。その人は“生命とはシステム”なんだって言ってたわ」
 私は少し安心して答えた。
『それは“現実に存在する生命と同じように振る舞うシステムも生命”ということでございますか?』
「う〜ん、そういうことになるかな?」
『そういう定義でございましたらバーチャルに生命は存在できるかと思います』
「『できる』?」
『はい。そのようなシステムならすでに人工生命として広く存在しております。ですが、私が存じている限りでそれら人工生命が生命として広く認められたという話を聞いておりませんので』
「そうよね……」
『また、その方がそのことをご承知なかったとは思えませんので、人工生命を生命と認める新しい動きが現れたか、革新的な人工生命を開発されたということなのかもしれません』
 私は斉藤さんの話の続きをほとんど聞いてなかった。チョコはアバターに違いなかったし、パック一人が人工生命を生命だと主張しても認められるはずがないのだ。
「斉藤さん、ありがとう。もし存在したらどうしようってずっと気になってたの」
『さようでございますか。私もお嬢様のお役に立ててうれしゅう存じます』
「後、斉藤さんにお願いなんだけど、誰にも秘密でこの研究所と同じ統合型感覚再現技術を研究してる研究所を探してくれる? このチョコの身体がどこかにあるはずなの」
 すっかり安心した私が話題を替えると斉藤さんもほんの少しホッとした様子で答えた。
『かしこまりました。井上様にも内密にということでございますね』
「そう。チョコのことも秘密だからね」
『承知いたしました。どなたにもお知らせいたしません』
「知らせてくれるのは私がこの部屋にいて誰とも話してないときにして」
 私はてきぱきと斉藤さんに頼んでもう一度チョコの頭をなでた。
「……これでチョコの身体がどこにあるかちゃんと分かるからね?」
 ――?
 チョコは私になでられながら話がよく分からないみたいに首をかしげた。
「フフ、無理もないか。チョコには難しすぎる話だものね」
 私はチョコの仕草がかわいくてさらにチョコの頭をなでた。
 斉藤さんでも時間が掛かるだろうけど、見付ければパックもチョコを新しい生命だなんて言わなくなるに違いないと思った。
「今度パックに会ったら何て言ってやろう?」
 この前は一方的に宿題を押し付けられたのだから、今度はこっちから宿題を押し付けても良いかもしれなかった。
「え? 今度はお腹?」
 考えていた私はチョコに促されてチョコのお腹をかいた。そして、しばらくチョコと遊びながら考えていて、いつの間にか何を着て会いに行くかということまで考えていた。

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