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斉藤さんの言葉に不安になった私が研究室に戻ると井上さんもちょうど戻ってきたところだった。 『あら、お昼はもう少しあるわよ?』 「美穂姉、バーチャルが現実になるなんてことないよね?」 『ちょっと待って』 井上さんはすぐに荷物を置いて私に向き直った。私の口調に気付いたみたいでまっすぐに私を見詰めている。 『最初から説明してくれる?』 「ええと……」 安心して一度に説明しようとした私は言葉を選んだ。やっぱり美穂姉が一番安心できると思ったけど、美穂姉もすべてを知っていてくれているわけではないのだ。 「……昼休みにもらったコミュニケーションソフトを“斉藤さん”って名付けて設定してたら、斉藤さんが部屋に驚かなかったんです。それで、私がなんで驚かないのかって尋ねたら、斉藤さんが『私にとって現実であろうとバーチャルであろうと変わらない』って」 『そう……』 「だから、現実とバーチャルの違いって何だろうって思ったり、違いがないなら私もこっちを現実と思うようになるのかなって不安になって……」 『そうなの』 「美穂姉はどう思う? 現実とバーチャルって違いがないと思う? バーチャルが現実になったりすると思う?」 『そうね……』 イスに座った井上さんは考え込んでいる様子で机をたたいた。ペンや指で机をたたいたりするのは井上さんが考え込んでいるときのクセだった。 『……望ちゃんはどう思ってるの?』 「分からないんです。もちろん、現実とバーチャルは違うし、バーチャルが現実になることもないって信じてるけど、斉藤さんにあんな風に断言されちゃったからちょっとショックで……」 『そう』 「斉藤さんが間違ってるって可能性はあると思う?」 『そうね……』 「斉藤さんは部屋しか知らないし、AIで認識できる情報が私よりずっと少ないから区別できないのかな……?」 私は井上さんに聞いてもらいながらまた不安になった。認識できる情報が減ったら現実を区別できなくなるなら、サイボーグになった私も現実を十分区別できなくなるのだろうかと思った。 「美穂姉、現実とバーチャルは違うよね? 斉藤さんは部屋しか知らないから区別できないだけだよね?」 『……そうかもしれないわね』 井上さんは優しく私を見詰めた。 『望ちゃんの言うとおりかもしれないけど、私は専門家じゃないから少し調べてからで良い?』 「……うん」 『二郎も仕事に戻っちゃったし、とりあえずは斉藤さんが本当に区別できないのか様子を見てみたら?』 「『様子見』?」 『そう。斉藤さんだってインターネットを使って情報を更新してるんだから、少ししたら考えが変わるかもしれないじゃない』 「……そうか」 私は井上さんの言葉に安心した。斉藤さんがあまりに人間らしかったから断言を真に受けてしまったけど、AIはあっさり考えを撤回することがあるのを忘れていた。 「そうよね、斉藤さんがロマンスグレーの完璧な執事だからって不安になることないよね」 『え? 斉藤さんってロマンスグレーの執事なの?』 「あ、気にしないで。別に深い意味はないから」 私は井上さんの表情が変わったのに気付いてちょっと離れた。 「ホントに深い意味はないから」 『そう? 私はもっと年が近い人格を選ぶと思ってたんだけどな?』 井上さんは私を逃がさないように身を乗り出した。今まで私が井上さんと飛島さんのことをせっつくだけだったから、井上さんに反撃の手掛かりを渡してしまったみたいだった。 「ちょっと、もうすぐ仕事なんでしょ?」 『大丈夫。望ちゃんの話を聞いてるって言えば平気だから』 「しつこいと飛島さんに嫌われるよ」 『あら、しつこいのは望ちゃんも同じでしょ?』 井上さんはイスから立ち上がって私を捕まえようとし、私は天井近くまでカメラを引き上げて逃げようとする。 『ほら、おとなしく白状しなさい』 「だから深い意味はないってば」 『だったらなんでロマンスグレーの執事なんて渋いのを選んだのよ。若い美男子の執事や私くらいの同性の人格だってあったでしょ』 研究室に戻ってきた他の人たちは笑っているし、中には井上さんをけしかけている人さえいた。 「ちょっと、なにけしかけてるんですか!」 『あれ、聞こえた?』 「聞こえましたよ」 『ほら、逃げないと捕まっちゃうよ?』 「あ!?」 私は間一髪のところで井上さんの手をかわした。カメラだけの幽霊みたいな状態だからできたことだったけど、こんなことができるのもここが現実だからだと思った。 でも、その次の瞬間、私は恐ろしいことに気付いた。 『捕まえた!?』 あまりにも恐ろしくて私は井上さんに捕まったことにも気付かないくらいだった。 『望ちゃん……?』 「……あ、美穂姉……」 私は逃げていたことも忘れて井上さんに視覚と聴覚しか再現されていないカメラを押し付けた。井上さんを抱きしめたかったし、井上さんに抱きしめてもらいたかった。 戸惑っていた井上さんもすぐに気付いてくれたみたいでカメラを抱きしめてくれた。 『……望ちゃん、一旦部屋に戻りましょう。アメをなめて、枕を抱きましょ? 望ちゃんは子供っぽいからいいって言ってたけど、大きなクマのぬいぐるみを送ろっか?』 「……いえ、そこまではいいです……」 私は素直に部屋に戻って枕を抱きしめ、アメをなめた。部屋で待っていたチョコが不安そうに身体を押し付けてきたけど私は無視した。というのも、気付いた恐ろしいことというのは、井上さんたちに触れることができない――触覚が再現されていない――現実の研究室よりチョコと触れ合える部屋の方が“現実らしい”ということだったからだ。 すぐにケイタイが鳴って、私は斉藤さんに頼んでパソコン画面につないでもらった。 『……望ちゃん、聞こえる?』 「はい……」 私は井上さんに答えながらパソコン画面の正面に腰を下ろした。この触覚のせいで部屋の方が現実より現実らしいと思ってしまったのに、枕を抱きしめている感覚がなければすべてが崩れ去ってしまいそうだった。 パソコン画面では井上さんが心配そうな表情で見守ってくれている。 斉藤さんは気を利かせて静かな曲を掛けてくれて、無視したチョコも足下に降りてその温もりを感じさせてくれた。 「……ごめんなさい。突然怖がったりして」 『いいのよ。そのために私がいるんだから』 「現実でも使えるアバターがあれば良いんですけどね……」 『そうね……』 井上さんは無理に平静を装っている様子で言った。無理しているように見えたのは短い間だけだったけど、井上さんもつらい思いをしているに違いなかった。 「……平衡感覚再現テストと環境再現テストは延期ですか?」 『そうね。でも、元々望ちゃんの治療には必要ないテストだから』 「だけど、うまくいけばまた現実に近付いたわけですよね?」 『そうね』 「現実とバーチャルの違いって本当に何だろう?」 独り言のように言った私に井上さんは答えなかった。 「……さっき、研究室にいるより部屋にいる方が現実らしいって思ったんです。現実にいるよりバーチャルにいる方が現実らしいなんておかしいですよね?」 『…………』 「部屋は現実じゃないから嫌だって思ってたのに、現実より現実らしいなんて……」 『望ちゃん……』 パソコン画面の井上さんが私を見詰める。 でも、パソコン画面に映っている井上さんは斉藤さんと大して違っていないように見えた。 「美穂姉、私おかしいのかな?」 『望ちゃんは自分がおかしいと思うの?』 「だって、現実を区別できなくなったら病気でしょう?」 私は強い口調で井上さんに尋ねた。病気なら病気だとはっきり言ってもらいたかった。 「統合型感覚再現技術は反対されてもいるし、本当は間違ってたんじゃないの?」 『…………』 「現実で過ごしてれば部屋の方が現実らしいなんて思うこともなかったんだし」 『……そうかもしれないわね』 井上さんは淡々と言った。 『確かに望ちゃんの言うとおりかもしれないわね』 「部屋に住むのを止めれば治るでしょ?」 『そうかもしれない。でも、望ちゃんは部屋を現実だと思ってるの?』 「え?」 『「部屋にいる方が現実らしい」っていうのは聞いたけど、今の望ちゃんにとって部屋は現実なの? バーチャルなの?』 「……バーチャルだけど……」 『じゃあ、現実より現実らしいとは思ったけど、バーチャルだと思ってるのね?』 「うん……」 私は井上さんに言われてまだ自分が現実を区別できなくなってるわけではないと気付いた。 「……でも、これからなるかもしれないでしょ?」 『かもしれないわね』 「だったら、部屋に住むのを止めた方が良いんじゃないの?」 『じゃあ、他の人たちに伝えておく?』 「うん……」 井上さんに答えたものの、私は気持ちが晴れなかった。特に、特別病室に横たわっている今の身体を思い出したら部屋に住みたくないという気持ちがどこかに行ってしまった。 あの身体で治療が終わるまで耐えられるか私は自信がなかった。 『……望ちゃん?』 「……あ、やっぱり待って。美穂姉は私がおかしくなると思う?」 『分からないわ。最善は尽くすけど、初めてのことばかりだから』 「……部屋に住むのはあと半年ぐらいなんだよね?」 『そうね』 「本当におかしくなりそうだったら分かるし、助けてくれるよね?」 『もちろんよ』 「じゃあ……、もう少し部屋に住むことにする」 『そう』 「まだおかしくなるって決まったわけじゃないし、今から心配しても仕方ないもの」 『そうね』 井上さんはほんの少しだけつらそうな表情でほほえんだ。もう一度抱きしめてもらうことはできなかったけど、足下のチョコがもう一度身体を押し付けてくれた。 |
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