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 新型ウイルス――その後チョコチョコ動くから“チョコ”と命名――の実体を見付けるために部屋の外に出た私は適当なところで部屋に戻った。明日もテストや検査の予定が入っていたし、探検にはもっと準備が必要だと気付いたからだ。
 部屋に戻ったときにはチョコともずいぶん仲良くなっていて、次の日にはすっかり手放せない“家族”になっていた。
『……という予定なんだけど、望ちゃん、ちゃんと聞いてる?』
「あ、はい! 変更された午後の予定でしたよね」
『そのとおりだけど、ずいぶん部屋が気になるみたいね』
「そ、そうですか?」
『うまく隠してるつもりみたいだけどちゃんと分かるわよ。いくらカメラだってさっきから私のこと見てないじゃない』
 井上さんが少しだけあきれたような表情で私を見詰めた。私がさっきから今日の探検のことを考えていたことはすっかり筒抜けになっていたようだ。
「すみません……」
『まあ、望ちゃんが楽しんでくれてるなら良いけど、追加されたテストはちょっときついかもしれないからね』
「はい……。確か、平衡感覚再現テストと環境再現テストでしたよね?」
『そう。平衡感覚再現テストではこの間の不具合を直したって言ってたけど、気分が悪くなったりしたらいつでも中止してもらって』
「はい」
 まだいくらか探検のことを考えていた私はこの間の平衡感覚再現テストのときのことを思い出して気持ちが引き締まった。この間は再現がうまくいかなくて本当に大変だったのだ。
「今度はちゃんと聞きます」
『そうね。話もあと一つだけだからね』
 井上さんはパソコン画面を確認してすぐに私に向き直った。
『その最後の話は二郎からなんだけど、望ちゃんに「昨日のお詫びに」ってコミュニケーションソフトを送ってきたの』
「『コミュニケーションソフト』ですか?」
『そう。今まで望ちゃんには使わないでもらってたけど、「秘密の話ができる話し相手は何人いても良いだろうから」って』
 井上さんは言いながらパソコン画面でコミュニケーションソフトのコマーシャルビデオを見せてくれた。
 何人もの人格が次々登場するビデオによるとそのソフトは高度な人格を持って普通に人と話をする感じでネットワークを制御できる優れものらしい。キャッチフレーズには「優秀な執事や秘書に任せてみませんか?」とあった。
「……でも、使って良いんですか?」
『ええ。望ちゃんにとってもその方が良いでしょうし。
 もちろん、無理にとは言わないけど、私もそろそろプレゼントしようって思ってたのよ』
 井上さんの返事を聞いて、私は井上さんが少し残念そうにしているのは飛島さんに先を越されたからでもあるようだと思った。
「ちなみに、井上さんはどんなコミュニケーションソフトを考えてたんですか?」
『私はもっと望ちゃんに設定年齢が近い人格の方が良いと思ってたの。でも、調べてみたら二郎の送ってきたものの方が話し相手としての能力が高いみたいなのよね』
 井上さんはまだ少しだけ残念そうにパソコン画面の執事や秘書たちを眺めた。
 確かに、画面に写っている人格は一番若くても井上さんくらいの設定年齢――しかも、その若い女性秘書の人格は井上さんに似ていた――だった。でも、私は秘密の話ができる友達より見守って後押ししてくれる相談相手の方がほしかったからピッタリだと思った。
「じゃあ、遠慮しないで使わせてもらいます」
『無理しないで良いんだからね。合わないと思ったら我慢しないで二郎に返しちゃって』
「分かってますって」
 私は喜んでいることをあまり表に出さないように答えて、井上さんにコミュニケーションソフトを部屋のパソコンまで転送してもらった。
『じゃあ、望ちゃんもお昼を楽しんでね』
「はい。もう美穂姉たちのお昼をうらやましがらなくてもすみますからね」
『そうね』
 井上さんも私が食事代わりにアメをなめていると話したことを思い出した様子でほほえんだ。
「あ、あと井上さんも飛島さんにお礼を伝えといてもらえませんか? 私もメールしますけど、美穂姉から伝えてもらった方が早いと思うんです」
『分かった』
 素早く昼休みの準備を整えていた井上さんが立ち上がった。多分、今日も飛島さんと一緒にお昼なのだろうと思ったら私も早く部屋に戻りたくなった。
『じゃあ、また後でね』
「はい、行ってらっしゃい」
 研究室を出ていく井上さんを見送ってすぐ私も部屋に戻った。


「チョコはお昼どうする?」
 私が肩に手を伸ばしながら尋ねると、ずっと待っていたチョコはうれしそうに手によじ登った。
「何か食べられるものがあれば良いのにね」
 落っこちないと分かっていても私はチョコが落ちないように手を動かしてチョコの顔をのぞき込んだ。
 もちろん、私もアメしかなかったけど、チョコはもっと何もなかった。昨日寝るときになって初めてチョコには寝るところもないことに気付いたくらいだった。
「せめてチョコもアメで遊んでちょうだい」
 私はチョコを軽くなでてから机の上に降ろした。缶から取り出したアメを一粒渡すとチョコは両手で抱えるようにして調べている。アメはチョコの口に入らない大きさだったからかじるまねをして遊ぶくらいしかできないのだ。
「……今度パックに会ったら絶対言っとかなきゃ」
 私は自分の分のアメを口に入れながら改めて強く思った。アメは破壊不可能だったし、せめてチョコが口に入れて楽しめるものぐらい用意してもらおうと思った。
 そして、私はレモンの甘酸っぱい味を十分味わったところで井上さんに送ってもらったコミュニケーションソフトを呼び出した。
「お昼の間に設定できるかな?」
 使わせてもらえると思ってなかったけど、コミュニケーションソフトを使えればパックの研究所を見付けることはずっと簡単になる。もしかしたら午後のテストを受けている間に見付けられるかもしれなかった。
「チョコは誰が良いと思う?」
 私はもうアメにあきた様子のチョコに呼び掛けた。
 机の上のパソコン画面には井上さんに見せてもらったのと同じ執事や秘書たちが映っていて、簡単なプロフィールも付いていた。
「秘書よりは執事の方が良さそうな気がするけど……、この女性秘書は絶対美穂姉に似てるよね?」
 私は改めて若い女性秘書を眺めた。井上さんが気付いていたのかどうかは分からなかったけど、女性秘書は顔の輪郭や目の感じが井上さんに似ていた。もしかしたら、飛島さんはこの女性秘書が入っていたからこのコミュニケーションソフトを持っていたのかもしれないとも思った。
「飛島さんのパソコンに行って確かめてみよっかな?」
 昨日の探検ではセキュリティの巡回にくっついてあちこちのぞいていたから、飛島さんのパソコンの場所も大体見当付いていた。
 でも、いくらなんでもプライバシーの侵害だと気が付いて、私はすぐにコミュニケーションソフトの設定を始めた。
 結局、私が選んだ人格は誠実で口の硬そうな執事だった。
 コミュニケーションソフトは元々どの人格も使用者の秘密を守るけど、念には念を押しておきたかったのだ。決して、ロマンスグレーの執事にあこがれていたり、「お嬢様」と呼ばれたかったりしたわけではない。
 それなのに、私は早速斉藤さん――私が人格に付けた名前――と押し問答をしていた。
「……だから、『お嬢様』って呼ぶのは止めてって」
『では、“望様”とお呼びいたします』
「『様』も止めて」
『それは申し受けかねます。使用者とソフトの関係ははっきりさせなければなりません』
 パソコン画面の斉藤さんは非の打ち所がない表情で言った。モーニングを完璧に着こなした斉藤さんは“執事の中の執事”という感じなのだけど、こんなに頑固だとは思ってもなかった。
「……私が家で使ってたコミュニケーションソフトはもっと親しみやすかったわよ」
『それはお使いになっていたソフトの人格が私どもより不完全だったからでしょう。私どもは人間とほぼ同じ水準の人格を達成しておりますので、使用者とソフトの関係をはっきりさせなければならないのです』
「……じゃあ、『様』を付けなきゃダメってこと?」
『はい、そのとおりです』
「分かった……。じゃあ、『お嬢様』にして。様付けの名前で慣れちゃうと困るから」
『かしこまりました。お嬢様』
 斉藤さんは完璧なお辞儀をして答えた。
 私は他の人格に替えようかと本気で悩んだけど、もっと年が近い美男や美女にかしずかれたりしたら今以上に落ち着かないと思った。ある意味、場違いすぎるくらいの斉藤さんの方が良いのかもしれなかった。
「……後、早速で悪いけどケイタイでも話せるように設定してもらえる?」
『かしこまりました。お嬢様が使用されているケイタイは現在家庭内ネットワークに接続されている一台だけでございますか?』
「そう」
『では、設定が終了しましたらご報告いたしますのでもう少々お待ちください』
「分かった」
 斉藤さんが一旦パソコン画面から消えて私は大きくため息をついた。
「……チョコは斉藤さんとうまくやっていけると思う?」
 私の肩の上に戻っていたチョコは興味なさそうに頭を下げた。斉藤さんにはチョコが見えなかったから、チョコも斉藤さんのことはどうでも良いみたいだった。
「ちょっと〜、チョコは味方してくれるんでしょ?」
 私はチョコを捕まえようとしたけど、その前に設定を終えた斉藤さんに呼び出されてしまった。
「あ、設定終わったんだ」
『はい、ただ今設定が終了いたしました』
 斉藤さんは何事もなかったようにさっきとまったく同じ表情でケイタイ画面から答えた。
「あ、ありがとう。問題なく使えそう?」
『はい、問題なく使えます。ただ、このケイタイは少し特殊なようですね』
「そうなの。この部屋もパソコンもケイタイも全部バーチャルだから」
『さようでございますか』
「驚かないの!?」
『はい、「バーチャル」の製品でも私の仕事に支障はございませんので』
 斉藤さんはごく当たり前のように言って私を驚かせた。
「ちょっと、バーチャルはメーカー名でもブランド名でもないってば」
『失礼いたしました。では、仮想現実ということでございますか?』
「そうよ。この部屋もパソコンもケイタイも全部仮想現実なの」
 私はもう一度繰り返したところで一瞬考え込んだ。つい訂正してしまったものの、斉藤さんにとってはどちらも同じなのではないかと思った。
『どうかなさいましたか?』
「うん……、ちょっと考えちゃって」
『では、控えておりますのでいつでもお呼びください』
「待って。斉藤さんはここがバーチャルだと知っても気にならないの?」
『はい。この家庭内ネットワークがどこにどのように構築されていても私の仕事は同じでございます』
「でも、斉藤さんが見たり聞いたりしているものは現実じゃないんだよ?」
『お嬢様は不安なのでございますか?』
 斉藤さんはケイタイ画面から私を見詰めて尋ね返した。私が悩んでいることに気付いてくれたみたいだったけど、なぜ悩んでいるのかまでは理解できない感じだった。
「……斉藤さんはならないの?」
『はい。私にとって現実であろうとバーチャルであろうと家庭内ネットワークの外部環境ということに変わりありません』
「そう……」
 私は斉藤さんに断言されてしまってさらに悩んだ。斉藤さんにもここがバーチャルだとはっきり分かって落ち着かない気持ちになると思っていたのにちょっと裏切られた気分だった。
 一体、現実とバーチャルの違いって何なのだろう。
 パックが言っていたみたいに私もここを新しい世界と受け入れられるようになるのだろうかと思ったら急に不安になった。このまま治療を受けて現実に戻るのだという気持ちが揺らいでしまう気がした。
『お嬢様?』
「……悪いけど話は後にして」
『かしこまりました。あと五分少々で研究室の昼休みが終わります』
 斉藤さんは静かに頭を下げてケイタイ画面からいなくなった。
「……悪いけど、チョコもまた待っててね」
 私はチョコの暖かさを確かめるように何度もなでてから研究室に戻った。

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