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小さなトラブルがあった義手のテストは開始が少し遅れただけで予定どおりに行われた。続くテストや検査も大体予定どおりに進んで、特に味覚と嗅覚の再現テストではまずまずの成果を上げた。 そのため、飲み物まではのどごしなどの再現の問題で無理だったものの、私は半年振りぐらいにリンゴのアメで井上さんたちと“乾杯”していた。 『どう? 久し振りのアメの味は』 「うーん……、不思議な感じもしますけどとってもおいしいです」 私はパソコン画面に映っている井上さんと飛島さんに答えた。 部屋の机の上には色々な味のアメがランダムに出てくる缶が置いてあって、私の口の中にはリンゴの味がするアメが入っていた。 口に入れても食感がなくて時間が経つといきなり味が消えてしまうという不自然なアメだったけど、味は確かにリンゴで本当においしかった。 「こんなにおいしいアメは初めてです」 『良かった。新田さんたちもきっと喜ぶわ』 『そうだな。新田は特に望ちゃんのことを気に入ってるから、その一言でさらに張り切るだろう』 飛島さんも井上さんの隣で新田さんの席を眺めるようにして言った。 その新田さんはジュースやアメで再現できなかった食感を再現するために今も他の研究員と残業している。 他の研究所の人たちもそうだったけど、本当にいくら感謝してもしきれないくらいだった。 『……だけど、せめて感想くらい望ちゃんから直接聞けば良かったのに』 『恥ずかしかったんだよ』 飛島さんは少しだけ新田さんを弁護して言った。 脳の情報処理を研究している研究室で働いている飛島さんは落ち着いた感じの人で学校の先生みたいだった。井上さんは私のことを優先して付き合うことを先延ばしにしているようだったけど、私はお似合いのカップルだと思う。 「それより、折角飛島さんと一緒なのに私の相手してて良いんですか?」 『こら、余計なことは言わなくていいの。本を探してるときに専門家もいた方が良いと思って連れてきただけなんだからね』 「えー、もったいない。美穂姉が付き合ってくれた方が私も安心できるのに」 『望ちゃん!』 井上さんが怒って私がそれ以上言うのを止めさせようとすると、飛島さんが声を上げて笑った。 『ハハハハハ。望ちゃん、心配してくれてありがとう。でも、望ちゃんに心配してもらわなくても大丈夫だよ』 「そうですか?」 『そうだよ。それに、今日は俺も残業からちょっと抜けてきただけだからね』 「え、飛島さんも残業なんですか!?」 乾杯の後、飛島さんに井上さんを連れ出してもらおうと勝手に考えていた私はがっかりした。飛島さんは井上さんと違って白衣を着ないから仕事中かどうか分かりづらいのだ。 『それより、そろそろ望ちゃんの疑問を聞かせてもらえないかな? 「生命とAIの違い」だっけ?』 飛島さんはまだ笑みを残しながら言って、私は少し緊張した。ソフトウエアの専門家である飛島さんがどう判断するのか不安だった。 「……飛島さんはどう思いますか?」 『とってもユニークで面白い疑問だと思うよ』 「飛島さんも悩んだりするんですか?」 『いや、俺は別物だとばかり思ってたから考えたこともなかった』 「そうですか……」 私はホッとすると同時に落胆して尋ね返す。 「じゃあ、どこが違うと思いますか?」 『そうだな……、まず何よりAIには実体がないだろう?』 「ええ」 『それに、AIというのは基本的に受動的で与えられた刺激に対する反応の選択を学習しているにすぎない』 「でも、そう見えないAIも多いですよ?」 『そうだね。コミュニケーションソフトみたいに高度なAIもあるけど、それだって選択の回数や選択肢の数なんかが違うだけで基本的には同じなんだ』 「…………」 『もちろん、人間や生命も根源的なところではAIと同じかもしれない。単に複雑さの違いなだけなのかもしれない。 本当のところ、俺も望ちゃんみたいに突き詰めて考えてみたことがないんだ。最初に言ったみたいに別物だとばかり思ってたからね』 『……じゃあ、二郎もよく分からないっていうことね?』 『まあ、平たく言えばそうなるかな?』 飛島さんは井上さんに振り返って認めた。 『だけど、どうして望ちゃんは「脳もコンピューターに置き換えられる」って思ったんだい?』 「え……?」 『今までの様々な再現テストで大体分かってもらってたと思ってたけど、“脳をコンピューターに置き換える”っていうのは大変なことだよ?』 「で、でも……、今の私って身体がありませんよね?」 『そうだけど、脳をコンピューターに置き換えるのは義手や人工眼に置き換えるのとわけが違うんだ』 飛島さんは言いながら説明する言葉を探すように頭をかいた。 『……望ちゃんはコミュニケーションソフトやロボットなんかを見てAIを高く評価しているみたいだけど、実際は人間の脳よりはるかに単純なんだよ』 「そうなんですか?」 『望ちゃんはコミュニケーションソフトがどれだけの種類の情報を認識できるか考えたことがあるかな?』 「いいえ」 『たったの三種類だけなんだ。それも、他のコンピューターとのやりとりと、ユーザーと話すための音声と画像の三種類だけ。 人間の脳が視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚――圧力、痛み、温度にさらに分かれる――、内臓や筋肉からの感覚――これもさらに数種類に分かれる――、平衡感覚といった情報を認識しているのとは大違いなんだ』 『……じゃあ、置き換えるのは無理ってこと?』 井上さんも話に割って入った。飛島さんの話が専門的で長くなりすぎると警戒したようだ。 『そうだな……、大型コンピューターを使ったりすれば不可能ではないだろうけど、それだって記憶については別問題だからね』 「『記憶』……」 『そう。“身体が覚えてる”っていうような記憶まで全部コンピューターに移せると思うかい?』 「……できないんですか?」 『今の技術では無理だろうね。俺は専門じゃないから正確なことは言えないけど、この研究所だって研究してないはずだよ』 飛島さんの答えに私は取り越し苦労だったらしいと安心した。 脳をコンピューターに置き換えられないのであれば私とAIの間には脳があるかどうかというはっきりした違いがあることになる。 「……分かりました。生命とAIの間にははっきりした違いがあるんですね」 『うん。AIみたいに実体がないという方が本来は不自然なんだからね』 飛島さんはホッとしたように言って、井上さんも安心したようにうなずいた。 『じゃあ、望ちゃんの疑問は解決したってことで良いかな?』 「はい……。あ、今思い付いたんですけど、実体がなければ生命じゃないなら、身体を持っているロボットはなんで生命にならないんですか?」 『え?』 「それに、もしロボットが生命なら、ロボットに入る前のAIは“魂”ってことになりませんか? 前から今の私の状態は幽霊みたいなものかなって思ってたんです」 思い付いた私が一息に尋ねると、飛島さんは不意打ちを受けたような顔になった。 『……望ちゃん、そういうことは生命倫理の先生に聞いた方が良いんじゃない?』 「でも、落ち着かないんです。私が生命だってことは信じてますけど、どこからが生命じゃないのかはっきりさせておきたいんです」 『だったらなおさら……』 『いや、望ちゃんの言うとおりだよ』 飛島さんが井上さんを遮って言った。 一旦帰ろうとしていた飛島さんは改めて井上さんの隣に腰を下ろす。井上さんは少し困ったような顔をしていたけど、結局それ以上何も言わなかった。 『確かに、実体がなければ生命じゃないなら、身体を持っているロボットが生命にならないのはおかしいね』 「はい。身体があるのにどうして生命じゃないんですか?」 『それはロボットがただの機械だからって言う人もいるけど、結局はAIも含めて全部“人間の作ったものだから”っていうことじゃないかな?』 「じゃあ、ニュースで言ってた人工DNAから作った人工生命は生命じゃないんですか?」 『うーん、どうだろうね……』 「遺伝子組み換え生命も生命じゃないんですか?」 『いや、遺伝子組み換え生命は生命でいいと思うよ』 「だったら、どうしてロボットだけ生命じゃないんですか?」 私は興奮してつい強い口調で飛島さんに尋ねた。遺伝子組み換え生命のことまで言うつもりはなかったけど、例外が多いあいまいな境界であってほしくなかった。 「人間が作ったかどうかなんてはっきりした境界になるんですか?」 『今のところは大丈夫だと思うよ。地球外生命は火星で微生物が確認されてるだけだし、遺伝子組み換え生命もロボットの自主開発なんてしないからね』 「そんな!」 『望ちゃん、二郎は生命倫理の専門家じゃないんだからあんまり真に受けちゃダメよ。二郎は自分の考えを言ってるだけなんだから』 井上さんが身を乗り出して私と飛島さんの間に割って入った。 『二郎も望ちゃんを混乱させたりしないで。望ちゃんはホントに悩んでるんだから』 『……すまん。口が過ぎた。望ちゃんを混乱させたり、さらに悩ませるつもりはなかったんだ』 『当たり前でしょ。そうでなくてもこの種の問題は微妙なんだからもっと気を付けて言ってよ』 井上さんは飛島さんに注意してから私に向き直った。 『望ちゃんはロボットの権利について活動してる人たちのこと聞いたことない?』 「えーと……、あるような気がします」 『ロボットもどんどん賢くなってきてるから、ロボットを生命に含めても良いんじゃないかって主張してる人たちがいるみたいなの。だから、ロボットについてはあんまり急いで結論を出そうとしないで』 「はい……」 私はさらに聞いてみたかったけど井上さんの言葉に従った。 とりあえず、あの実体がない新型ウイルスは生命ではないとだけ自分に言い聞かせる。 「……でも、これから統合型感覚再現技術が普及していけば実体があるかどうかの区別は難しくなるでしょうね」 『そうね……』 井上さんと飛島さんも考えている様子でそれ以上積極的に言おうとしなかった。 『……まあ、俺に教えてあげられることは大してないかもしれないけど、もし何かあったらいつでも呼んでくれよ?』 『そうね、今日はどうもありがとう』 「どうもありがとうございました」 飛島さんが改めて帰って、私と井上さんはそれぞれ飛島さんが見えなくなるまで見送った。井上さんは私より長く見送っていて、私はその間に改めて新型ウイルスのことを思った。 『望ちゃん、二郎が言ったことは一つの考えだから、あんまり縛られすぎないでね』 「はい……」 私はもう一度井上さんにうなずいた。 でも、本当は新型ウイルスのことを考えていて、あんなに生き物らしく見えたものが本当に実体のないプログラムなのだろうかと思った。 |
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