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『おはよう、望ちゃん』 「おはようございます、井上さん」 私は出勤してきた井上さんを迎えた。 あれから一夜経ち、研究室にはまたいつものように井上さんや他の人たちが出勤してきていた。 『丸一日ぶりね』 「ええ。おかげさまで久し振りの独りをじっくり楽しめました」 『そう。それなら良かった』 白衣に着替えていた井上さんはトートバッグをイスに下ろしながら答えた。たった一日だったのに井上さんはホッとしている様子だ。 きっと、井上さんは私が独りで平気かどうか心配してくれていたのだろう。井上さんはそういう心の優しい人なのだ。 「井上さんこそ、ぐっすり眠れました?」 『うーん……。それが散らかってる部屋の掃除と洗濯で大体終わっちゃったのよね』 「じゃあ、あんまり眠れなかったんですか?」 『うううん。そんなことなかったよ。昨日はゆっくりお風呂に入れたし、中で眠っちゃうなんてこともなかったから』 私に向き直った井上さんは笑いながら手を振ってみせた。 言っている間もトートバッグから出された紙の束が山に加わり、山の一部がゴミ箱に放り込まれていく。 山はいくらか小さくなったようだけど、この分だと私が電子空間を出るまで片付きそうになかった。 『それより、今日からまたテストや検査が続くけど、調子が悪かったりしたらいつでも言ってね?』 「ええ。大丈夫です」 『じゃあ、ミーティングの前に今日の予定を確認しておこっか?』 トートバッグを足下にどかした井上さんは早速パソコンを操作しながらイスに座った。 一昨日の予定のままなら、今日は開発中の義手、義足、人工眼、人工内耳のテストと味覚と嗅覚の再現テストが行われることになっていた。 『……あ、午後にこの間形成手術した左手の検査が入ってるね』 「……そうですか」 私は一瞬だけ間を空けて答えた。 井上さんはできるだけ気を遣ってくれていたけど、私は未だに事故後の身体を直視できなかった。左手だって執刀医の先生に「大成功」と言われていたのに障害が残るかもしれないと心配していた。 『……望ちゃん、私もついてるからね』 「はい……」 『不安なのは当然だし、心配なら今すぐ先生に説明してもらっても良いんだから』 「……いえ、そこまでしてもらわなくて大丈夫です」 私はカメラを振って先を促した。 左手は右腕や右足と違って切断しなくてすんだのだからそれだけで良しとしなければと思おうとする。そうでなくても命が助かっただけ他の家族より恵まれているのだ。 『……望ちゃん?』 「あ、大丈夫ですよね?」 『ええ、大丈夫よ。味覚と嗅覚の再現テストがうまくいったら今度こそ飲食できるようになるから、そうしたら一緒に乾杯しましょう』 「そうですね。今から楽しみです」 『じゃあ、新田さん――味覚と嗅覚の再現テストの担当者――にできるだけ早めにするよう伝えておくね?』 「ええ、お願いします」 私はできるだけ明るい声で言った。 身体のことはどうしようもないのだし、できるだけ考えないようにしようと思った。 その後、話は自然と雑談になった。 『……だから、友達は格好悪いから嫌だって断ったんだって』 「ええ〜、もったいない」 『私もそう言ったんだけど、友達は展望ドームで十分だったから良いって言うの。地球を見るなら宇宙遊泳で見るのも展望ドームから見るのも同じだって』 「そんな、全然違いますよ! 宇宙遊泳の方が絶対宇宙と地球を身近に感じられますって!」 『でも、彼女はドリンクと軽食付きの展望ドームで十分だったんだって』 「もう!」 私は会ったこともない井上さんの友人に憤慨した。 宇宙旅行だったら絶対宇宙遊泳すべきなのに、展望ドームだけだなんてレストランに行って見本だけ見て帰ってくるようなものだと思った。 『望ちゃんは宇宙遊泳楽しんでる?』 「もちろんです。 でも、いつか本当の宇宙遊泳をしてみたいです」 私は身振りの代わりにカメラを動かして井上さんに答えた。 井上さんたちには少し分かりづらいみたいだったけど、私はこのカメラが気に入っていた。身体を動かすのと同じくらい簡単に動かせたし、井上さんたちと同じ研究室にいるという実感がするからだ。 『大丈夫よ。 あ、後ろ通してあげて』 「ごめんなさい!」 『あら、ありがとう』 慌ててカメラを天井近くまで引き上げると出勤してきた他の女性研究員が笑いながら通った。 井上さんの話に夢中で気が付かなかったものの、いつの間にかだいぶ人がそろってきたようだ。 すると、その女性研究員が思い出したように井上さんに話し掛けた。 『そうそう、井上さんちのコンピューターは大丈夫だった?』 『え、何かあったの?』 『ほら、この間もニュースで「新型ウイルスの被害が急増中」って言ってたでしょ? 昨日、家の近所で被害があったみたいなの』 『大変ね』 『ここのセキュリティは万全だけど、家では気を付けた方が良いみたいよ。その家でも一通りの対策はとってたみたいだから』 『ありがとう。後でよく聞いておくわ』 「大変ですね……」 私は女性研究員を見送ってから再び井上さんの近くにカメラを下ろした。 新型ウイルス――その名のとおり新型のコンピューターウイルス――は変異性が高いとかで有効な対策を立てられないまま被害が広がっていた。家のシステムに入り込まれれば最悪で家の機能がすべて麻痺してしまうし、かなり深刻な社会問題になっていた。 「ここにいる分には大丈夫でしょうけど、治療が終わるまでに解決しててほしいですね」 『そうね。望ちゃんは治療が終わってもここにある専用端末以外には接続できないから大丈夫だけど、解決しててくれないと安心して暮らせないものね』 井上さんは私を安心させるように言って研究室を見回した。 『……そろそろミーティングが始まりそうね。乾杯するとしたら何が良い? リクエストがあるなら伝えておくよ?』 「そうですね……、飲み物で何が飲みたいかはあんまり考えたことないですけど、食べ物ならお好み焼きが食べたいです」 『お好み焼きか……。私も最近食べてないな……』 井上さんは少しだけ遠い目をして言った。 もしかしたら、飛島さん――別の研究室にいる井上さんの彼氏みたいな人――と一緒に食べに行ったときのことを思い出しているのかもしれなかった。 「でも、お好み焼きなんて出るわけありませんよね?」 『そうね。今日は味覚と嗅覚のテストだけだから固形物までは無理でしょうね』 「じゃあ、リンゴジュースをお願いします」 『分かった。伝えておくね』 井上さんの返事を聞いて私は視野を部屋に戻した。 研究室でミーティングなどが開かれている間は部屋で待っていることになっていた。 「だけど、ホントに食べられるようにならないかな……」 段階を踏まなければならないことは分かっていたけど、私は飲み物より食べ物の方が良かった。お母さんのお好み焼きはおいしかったし、特製ソースの味が懐かしくてならなかった。 「……でも、テストがうまくいけばソースだけでも再現できるよね」 コンピューターで作っても一応は“料理”だ。 現実ではそんなにやってなかったものの、井上さんに頼んでキッチンを作ってもらおうかなと思った。 |
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