アメリカ大陸横断日記  米川 昌志

   ”FREEDOM IS NOT FREE”   

僕は19才。タイドが始まった95年4月から参加しています。外国へは5年前にグアム、そして昨年は友達のブラッドの家があるホノルルに行ったことがあります。今回はタイドのリポーターとしてアメリカ旅行の様子を書いてみました。毎年ゴールデンウイークに君田地区の廃校で開催されるタイドキャンプの夜、ジュンさんの出発の予定を聞いてあわてて新しいパスポートの申請に水戸へ行きました。パスポートの発行日は出発ギリギリの朝9時でした。もう一日遅かったら・・、ヤッパリ僕はアメリカに行く運命なのだ。僕はカトー電気とイナバ石油でアルバイトして旅費の6万5千円を貯めました。

5月8日(木)
午後1時、成田空港へ出発しました。この日は日本全国で強風が吹き荒れ、ひたちなか市のあたりの乾燥イモ畑は土埃で10メートル先も見えません。まるで砂漠の砂嵐です。どの車も真昼なのにヘッドライトをつけてノロノロ運転。夕方6時のユナイテッドでサンフランシスコ乗り継ぎのボルティモア行きに乗り込みました。離陸して20分ぐらい機体は強風のため激しく揺れました。心配げな僕の顔をみてジュンさんは「ジャンボ機の翼の強度テストは、クレーンで先を吊り上げて壊れるまでやるんだよ」というのを聞いて、大丈夫と思うようにしました。でも「ジェットコースターじゃないはずなのに・・」

9時間後、到着したサンフランシスコでの乗り継ぎの時間に僕たちは出発ロビーにあるNECの無料電子メールのサービスコーナーを見つけました。さっそくユーザー登録して短いメールを何人かの友達に送りました。この無料サービスは3回のログインまでで、それ以降はクレジットカードで支払う仕組みのクセモノでした。でも3回は送れたから、まあいいっか。

ここから更に東海岸のボルティモアまでの5時間の旅です。ボルティモア空港には、7月の講演会に来日するパイク教授とボストンに住むフライトアテンダントのトミーさんが迎えに来ているはずです。僕は窓側の席に座り、ジュンさんは僕の前の列の真中の席、その左は1ヶ月120万円の収入があるティムさん。ティムさんはノート型パソコンに向かい、パタパタとキーをたたき始めました。ジュンさんの右隣は30分で眠り込んでしまった品のいいおばさん。ジュンさんはティムさんと生きがい、家族、仕事の話を繰り広げていました。モチロン、タイドのことがメインの話題です。着陸15分前になって眠り込んでいたおばさんが突然ジュンさんに向かって「いい話をたくさん聞きました。大変嬉しく思います。ありがとう。」と言って名刺代わりのカードをウインクして渡しました。その人は、ジャックリーン・ミラーさんでベストセラーになりつつある著作は Heart at Work(心が働くとき)は日本語訳でも出版されるとのこと。

夜10時、ようやくオレンジ色のライトに包まれたボルティモア空港に着きました。成田を発って17時間が過ぎていました。空港ではパイク先生が出迎えて下さいました。もう一人待ち合わせしたトミーさんが、ボストン発シカゴ経由の遠回りをして10時30分に到着。パイク先生の車で暗闇のハイウエイーをDAY’S INNモーテルに向かい、僕たちを降ろして帰って行きました。僕は、トミー(5年前、茨城で英語の先生をしていた)を覚えていたし、しばらく高萩のことを話すとトミーも僕のことを思い出してくれました。お腹が空いてきたので何か出前のピザでも頼もうかとそこいらじゅう電話しましたが、どこも終業。飲んだのは販売機で買った缶コーラだけで朝の3時まで話していました。トミーはN航空の乗務員で主にボストン−アムステルダム−ニューデリー(インド)の乗務が仕事です。食事・飲み物の機内サービスは仕事全体の10%ぐらいで、ここでは詳しく書けませんが残りの90%はあらゆるケースの安全確保に向けられているそうです。

5月9日(金)
窓を開けて外を見るとまわりは林とハイウエイを行き交う車の通過音だけが聞こえてきます。とんでもない不便な場所に泊まったようです。ロビーにあったドーナツとコーヒーが有難かった。後で分かったのですが、パイク先生は方向オンチで予約した空港に近いのを通り越して、わざわざ遠い別の同じ名前のモーテルに案内したのでした。先生は期末試験の最終日と会議で夕方まで抜けられません。

タクシーを拾い、空港に予約したレンタカーでワシントン見物へ。小雨の環状線を通ってトミーのおばさん、ジョイスさんのアパートに車を止めさせてもらいに挨拶に。移民局に勤めているこのおばさんは実はイトコにあたるのだが年が離れすぎているから、おばさんと呼んでいた。ヨーロッパ風レンガ造りのマンションの地下室へ降りるとエルビス・プレスリーのグッズが整然と飾ってありました。

大統領の娘、チェルシーさんが通うという煉瓦壁の私立高校を抜け、地下鉄に乗り換えてホワイトハウス、総大理石のオリベスク、リンカーン記念館(鎌倉の大仏ぐらいの大きさの彫像がある)、ルーズベルト記念館(ズボンのベルトがゆるんだわけじゃない立派な大統領の名前 (写真左)、ベトナム戦争慰霊碑、そのとなりにある朝鮮戦争記念碑、スミソニアン博物館、国会議事堂とハイキングしました。多分15km以上歩いたでしょう。

国会議事堂から見たワシントン市の夕焼けは今回の旅行の中で一番美しい景色でした。印象は・・?働き盛りの39才でポリオにかかり車椅子の生活をすることになったフランクリン・ルーズベルト記念館は彼の語った言葉が刻まれた「石の庭園」でした。その言葉で考えらせられた言葉がありました。FREEDOM IS NOT FREEです。この短い言葉が頭から離れません。ワシントンをテクテクとハイキングした僕達、小雨の中運転してくれたトミーはベットに横になって1分もたたないうちに眠ってしまった。ヨーロッパから戻ったばかりで余程疲れていたに違いない。(写真左 Masashi/ Tommy)

5月10日(土)
朝10時に(方向オンチのゴメン!)パイク先生が宿へ迎えに来て、いよいよアメリカ海軍士官大学へ。アナポリスは風向明媚な入り江が沢山ある小さな町です。冬は降雪があり大変冷え込むと聞いていたこの町は、新緑が芽生えていました。職員専用のゲート9を通ってまず、学内へ。期末試験が昨日終わった大学は学生が一人も見当たらなく閑散としていました。由緒ある立派な建物が並び絵のような景色のキャンパスでした。映画の卒業式のシーンで帽子を空高く放り投げるのがありますが、ここでもその光景が見られると聞きました。ここは全米でもエリート校なのだそうです。僕はエリート校よりコロラドですし職人を目指すかな!(トミーは日本語が少しできるので寿司屋でアルバイトしていた経験がある。時給よりチップの方がお金になると言っていた。)

先生のオフィスはパソコンと書籍が整然と並べられていて、机にはダンナさんの写真がありました。隣はロシア語の先生の部屋でした。先生とジュンさんは学生食堂のカフェテリアで夏の講義内容とアメリカの教育現状の情報交換。パイク先生はタイド主催の「アメリカの学習障害の研究事例」講演会に7月に茨城県日立市に来てくださることになっているからです。そのあと夕方あ5時の飛行機でシカゴ経由のロスアンジェルス(ここからはLAと略します)へと向かいました。トミーはコロラドの泥んこ温泉に行きました。そして寿司屋は間違いなし!

LAではジュンさんの友人でホノルル出身の学生マイケルがメタリックブルーのホンダ・シビックで迎えに来てくれたのはいいが、僕のスーツケースが出てこない!あせった!まさか盗まれてしまったか?えっ?まだ旅も始まったばかりなのに・・。ジュンさんが空港職員に聞いてくれてLA以外の空港に間違って送られてしまったらしい。アメリカ国内では乗客の乗る便に必ず預けた荷物が載るとは限らない。コンピューターを駆使して効率よく、速く、最終到着地へ送るシステムがあるのだが、僕のスーツケースは見事に!ハズレたらしく、行方不明。待っていても今晩はもう無理というので、マイケルの通う南カリフォルニア大近くのモーテルに向かう。僕の荷物は今どこに・・。ジュンさんが「マサシ!いい勉強の機会だから空港に電話してみたら」と。僕は辞書を取り出して電話をかけたが相手の言うことがさっぱり聞き取れない!自分の英語に自信をなくしました。「もう遅いから、また明日!明日どうにかなるから」とジュンさん。でも洗面具も着替えもないんだよな。

5月11日(日)母の日
朝5時30分、ジュンさんが「マサシ!KEIKOさんがラジオに出ている!」と言って小さくかけていたサイドテーブルのFMラジオのボリュームを上げた。この人は僕達が今日会うKEIKO MATSUIさんだ。全米で展開中の乳がん予防キャンペーンについてとKEIKOさんの音楽の素晴らしさがDJのインタビューで紹介された。きっと僕が考えているよりスゴイ人なんだ!

朝10時行方不明だった僕のスーツケースが配送されてきた。メデタシメデタシ。 マイケルが約束の時間になっても来ないので、ジュンさんが「マサシ、ギター見たいって言ってたけど行ってみるかい?」といいました。夕方まで時間があったので野茂が登板するドジャース観戦もいいけど、僕の頭の中はエレキギターで一杯になりました。

ジュンさんは知り合いのドゥワイトさん(写真右)に電話をかけ、15分ぐらいロビーで待つと彼はやってきました。ボロボロの車のトランクに荷物を積み込もうと後ろにまわると・・、なんと車体のトランクの部分が散弾銃で蜂の巣のように打ち抜かれていたのです。これは夜一人で歩いていたら体にアナがあいてしまうと思いました。まるで映画のシーンです。ジュンさんは「大丈夫!ハリウッドに行く前に見ておくべき場所があるから」と乗りこみました。ドゥワイトさんは盲目の人達の心を開放するワークショップを北アメリカ、カナダで展開してきたパーカッショニストです。

僕はLAというとすごくにぎやかで美しい都市のイメージを持っていましたが、そんな考えも一瞬で崩れていくような光景を見ました。8000〜10000人のホームレスの人達が路上暮らしをしているダウンタウンです。僕はその雰囲気に押しつぶされそうになりました。昼なのに何ともいえない重圧な緊張感が漂っていました。(正直いってLAにはあまりいたくないなと思いました。)でも、ここで生きている人達もいて、僕達は生きていることを忘れていけないと思いました。靴屋、生地屋、革製品、オーディオ、下着、アフリカ調ファッション、エスニック・・と様様な小さな屋台風の店がひしめきあって幾重にも交差するダウンタウン。僕はドゥワイトさんが言った言葉にドキッとしました。「これがLAだ。銀行や証券会社のモダンビルだけでなく、このダウンタウンをよく見てくれ!俺達はここで生きているんだ!」

その後、ダウンタウン近くのJapanese American National Museumに車を止めました。ドゥワイトさんは盲目の人達の心を開放するワークショップをアメリカ、カナダで展開してきたパーカッショニストです。ジュンさんに会いにLAから先月高萩に来ました。またこの場所で数ヶ月前に日本の太鼓のグループと共演したことがあるらしく、受付の人も覚えていたようです。第二次世界大戦中、強制収容所となったマンザナ・キャンプの復元模型がありました。おびただしいバラック(収容者の宿舎)の群れが鉄線で囲まれた砂漠にそのキャンプはありました。そこで折り紙をしているおばさんと孫がいました。メイ・ポーターさんです。ボランティアで日系移民の歴史の紹介をしているとのことでした。

打楽器メーカー(ラテン・パーカッション社)とアーティスト契約しているドゥワイトさんはその後、僕の憧れのギターセンターへ連れて行ってくれました。巨大なギターのロゴマークの看板をくぐるとおびただしい数のギターが展示されていて、はしゃいでしまいました。店員が話し掛けてきて、昨日のスーツケース事件で英語が通じなかったので「英語があまり話せません」というと、「じゃぁ、ゆっくり話してあげる」といいました。無くてもともと!と僕が一番欲しいギターがここにあるかと聞いてみました。「ついておいで」と別のガラス張りの部屋へ行くと、いなんとそこにあるじゃない!世界一欲しいジャクソン・ギターを見つけジュンさんのいるフロアへ。「そんなのはいつでも買えるからよーく考えたほうがいいぜ」「新しいピカピカのギターケースを抱えて移動するのはよしたほうがいい」となんともそっけない返事。今晩コンサートがあるHouse of Bluesに向かう途中ファーストフードの店先で昼食のハンバーガーを食べていると、一人のおじさんが Gimmie 40 cents, man!(40 円くれ)と寄ってきました。僕は心が痛みました。ハリウッドの高い丘の方を見ると金持ちの邸宅が市街を見下げるように並んでいて、一方ふもとのダウンタウンにはホームレスの人達が・・。本当にアメリカの光と影を見たような気がした。徘徊するホームレスのおじさんを素早く見て、もう一度丘を見上げた。

ハリウッドの丘の傾斜をそのまま生かした波型トタンのファンキーなオンボロ小屋風のクラブHouse of Bluesは外観とは違う凝ったインテリアでかっこよかったです。楽屋裏口に立っているとまもなく茶色のバンが現れ、運転していたのは話に聞いていたマツイ・カズさんとラジオのインタビューに出ていたご本人、淡いピンクシャツ姿のケイコさんでした。「こんにちは、お世話になります。」とジュンさん。「どうも。本当にLAにきましたねぇ」とマツイ・カズさん。この日のコンサートはインターネットで中継されるということで、その機材のセットアップが始まっています。

午後8時満員となった最終の「ケイコ マツイ 乳がん予防キャンペーンツアー Gift of Hope」は始まりました。LAの週刊新潮記者やカメラマンも来ていました。コンサートの内容は詳しく書きたいけれどきずなコンサートに来てみてください。そうすれば分かりますから。僕はヘビメタが好きで、今回は聞きなれていないスムースジャズでしたが、ビビッと鳥肌がたつほど素晴らしいコンサートでした。(写真はHOBコンサート終了後のサイン会)

5月12日(月)
朝、11時にLAを出発してサンフランシスコ経由でサンタローザに向かいました。途中から18人乗りの小さなプロペラ機でした。空港につくとまもなくジュンさんの20年前からの(第2の???)お母さん、ペギーさんが迎えにきてくれました。ジュンさんはぺギーさんの息子のクリフォードさんとは無二の親友だったといいました。クリフォードさんは95年12月、脳梗塞で突然亡くなったそうです。ジュンさんにとってその親友の死が大きな損失で、絶望を感じ、そして今年になって徐々に希望に変わってきたと話してくれました。

タイドのテーマソングを歌いたいと申し出たCPさん(写真左)を訪ねました。夕食後、デモテープを聞きにスタジオへ。ジュンさんはCPさんのデモテープのアレンジが気に入らない様子でボツ。現実は厳しい!でもCPさんの歌声はすごくいい。ジュンさんが日本語の歌詞の発音とアクセントを示すとCPさんは耳がバツグンにいいので正確な日本語?を発音したのには驚きました。しわがれた深い声はさすがにR&Bの歌手です。ニューオリンズ出身のCPさんはドゥービー・ブラザーズやネビルブラザース、ジェームス・コットンバンド、エタ・ジェームスとの仕事をしてきた歌手だそうです。

5月13日(火)
今日はカールさん(ギターリスト)とキャシーさん(チェロ奏者)のヴァスト家へ。カールさんとジュンさんは18年前からの音楽友達ということで、いつもあっている友人のような雰囲気でした。カールさんの家は標高1000メートルの山また山の上にありました。北カリフォルニアはワインが気候的にも土壌も合うらしくて大きな産業。あちこちに大規模な葡萄棚の丘が広がっています。

車で山岳道をはしること30分。そこはまるでセスナ機から眺めているような高さに感じました。自然と静けさを愛するカールさんは60エイカーの土地の提供を受け、太陽光発電の暮らしをしていました。暗くなると(夜9時頃)ろうそくに明かりが灯され、ふだん省エネと言ってもピンとこない僕でも、エネルギーのありがたさが実感できました。プロパンガスはありました。冷蔵庫もガスで冷やす仕組みだそうです。サンバとチャチャの2頭の愛犬と近くの滝まで散歩しました。家の脇で2頭のラマを飼っていました。前に住んでいた人から譲り受けたとか。ラマは動物園で見たことはありましたが・・。

カールさんの整理棚にあったジュンさんの作った曲を聞きました。20年前に作られたとは思えない新鮮な響きがありました。クラシック調にアレンジし直すのが夢とか。キャシーさんがテープに合わせてチェロを弾くと荘厳な感じになりました。打ち合わせが終わりオーブンからアラスカ鮭を取りだし夕食をごちそうしてくれました。ハーブも自家製。とても美味しかったです。ローソクの明かりの下、目が慣れてきた頃、僕は眠っていました。

5月14日(水)
今日はカールさん夫妻とヴァイオリニスト(ヘンリー・マンシーニ楽団)、コントラバスの4人の音楽家が小学校でワークショップを行うので同行しました。その学校は生徒数約200人のアレキサンダー・ヴァレイ小学校です。図書室が会場です。楽器の仕組み、和音、リズム、クラシック・カントリー・ジャズなどの演奏スタイルの違いと共通点の演奏がありました。

カールさんはワークショップの途中でジュンさんを紹介して、習字のコーナーを作ってくれました。学校が用意してくれたのは、水彩用筆と黒インク。手を挙げた生徒の思い浮かぶ言葉を書きました。「髪」「つめ」「音楽」「猫」「夢」・・「友情」と書いて20分ほどのワークショップは終わりました。ジュンさんが最後に生徒に一言だけお願いをしました。「どうぞ、他人に敬意を払ってください。どうか、両親あるいは保護者に敬意を払ってください。」といいました。小学生の子どもたちはキョトンとしていましたが、しばらくして「わかった」という表情にかわりました。先生2人とPTAの1人が「遠く日本から来たあなたがいった言葉はここの子どもたちに必要な言葉でした」と挨拶に来ました。

ジュンさんの話によるとアメリカの学校は大変良くない状況にあるというのことです。親は、離婚−結婚を(いわば定期的に)繰り返しそのストレスの鉾先は必ずその連れ子に向けられます。すべてがそうではないにしろ家族崩壊はあらゆる社会生活に響いていて人間関係や信頼が薄れ、小学生でも勉強する心理状態にないこと。この小さな学校でも児童虐待が珍しいことではなく、多く起きていると先生方から直接話をきいて僕はショックでした。数字では17才までにアメリカの7割の親が離婚してしまうそうです。僕は19才!両親の存在のありがたみが分かりました。

5月15日(木)
今日はアメリカ大陸滞在最終日。僕の気がかりのジャクソンギターを思い出してください。どうしても諦められません。ジュンさんに頼んでレンタカーでギター・センター、サンフランシスコ店に行きました。初めてのゴールデンゲートブリッジは濃霧で何にも見えません。坂道でケーブルカーとすれ違った時、サンフランシスコに来た気がしました。地図もなかったのですが開店10分前に到着。ところがLAにあった僕のノドから手が出そうなギターはここには無い!電話で在庫を確認してもらったらオークランド店に1本あるとのこと。そして車で30分後、ついに念願のギターを手に入れたのでした。そのあと午後の便でハワイ、ホノルルに飛び、到着するなりジュンさんは有名なギャラリーのマネージャとの打ち合わせ。大人は忙しいなぁ!

5月16日(金)
重度の身障者の施設に20年以上勤務するトーマスさんの案内で、午後からハワイ州立施設見学へ。週末を自宅で過ごす人は居ませんでしたが、迎えにくる人がいない棟に行きました。日本で生まれたキャシーさんは失明していましたが、僕達に素晴らしい贈り物をくれました。「こんにちは、僕達は日本から来ました。キャッシーあなたは美しいですね。」としばらくしたら眼球を摘出してくぼんだ彼女の閉じたまぶたから涙がこぼれたのでした。僕もジーンと目頭が熱くなりました。ベッドにベルトでくくりつけられた患者さん、まるで大きな猫のようにペロペロ手、顔、体をなめまわしている患者さん、床や壁にツバをかけたり、汚い言葉を繰り返す患者さんがいました。ここでは患者をクライアント(顧客)と呼んでいました。フィリピン系アメリカ人の職員で運営されていたのが特に印象に残りました。

2泊泊めていただいたノリヒコさんのお宅は素晴らしい眺めが展望できる高台にありました。ノリヒコさんは元三菱重工の技師で原爆投下直後の現地調査で被爆、その後ハワイに移住しました。長期に渡る薬の副作用で毎日2kgの体重の増減(排尿が困難)の苦痛に耐える毎日だそうです。僕は何も知らなかったけれどこれが原爆病なのかな。根っからのエンジニアでいろんな物を今でも工夫して作るそうですが、エジソン顔負けのその秘密の工房へは入れませんでした。読書家のため、日本に関する情報量は僕達よりも多く詳しく知っていました。奥さんのマイさんはアラモアナショッピングセンターのヨーロピアンブランドの現役セールスレディー。日本の演歌の歌手や有名人がお得意様だそうです。ノリヒコさん一家は相撲が大好きで生中継されるのを楽しみにしていました。久しぶりの手作りの和食をおいしくいただきました。

翌日朝、ホノルルを発ち、無事高萩に戻りました。僕に優しかった入院中のおばあちゃんが旅行中に亡くなってたのでお参りにすぐ行きました。アメリカ旅行の日記を書き上げていると夜9時、ジュンさんから電話。トミーがいつものボストン−アムステルダム路線ではなく、欠員が出たためピンチヒッターに衛星ポケベルでシアトルに呼び出されて、今成田に着いたんだって。会いに行くかい?2時間半かけて又成田に向かいました。


僕の10日間のアメリカ大陸旅行を最後まで読んでくれてありがとうございます。 今回の旅行では、パックツアーでは体験できないアメリカ人の様様な生き方とその社会背景が分かった気がします。よい部分、同じようになっては困る部分が少しだけ分かった気がします。


97.5

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