鈴木玄淳 雅号 : 松江(しょうこう)
すずき げんじゅん)1703年〜1784年
鈴木玄淳について詳しく知りたい方は・・・

『松江盧淳 鈴木玄淳と松岡七賢人たち』(高萩郷土史研究会編 2007)

江戸時代、庶民教育に努めた鈴木玄淳

 鈴木玄淳は、18世紀の松岡地方(現・高萩市)に暮らした人物です。その名を知る人は多くありませんが、緯線と方角線の入った初めての日本地図を製作した江戸時代を代表する地理学者として有名な長久保赤水の師であり、松岡七友(松岡七賢人)として知られる人々のリーダーとして地域で知られていました。
 『百姓日用訓』や『和漢年代歌』など庶民の教育のためにの著作を手掛け、なかでも『唐詩平仄考』は漢詩製作の参考書として高く評価され、当時多くの寺子屋などで教科書として用いられました。


松岡七友

    ○ 鈴木玄淳(下手綱村医者)
    ○ 僧宿雲(大塚村西明寺住職) → ○ 長久保赤水
    ○ 大塚祐謙(石岡村修験)
    ○ 大塚玄説(石岡村医者)
    ○ 柴田平蔵(木皿村農民)
    ○ 福地充宣(友部村医者)
    ○ 朝日祐誠(諏訪村修験)

 「常総地方において庶民好学の事例としてもっとも古いのは、享保末から元文の時期にかけて、水戸領多賀郡松岡地方(高萩市)の庶民の間に、中国晋時代の竹林七賢にあやかり、松岡七友と自称する人びとが現れたことであろう。七友とは、はじめ鈴木玄淳(下手綱村医者)、僧宿雲(大塚村西明寺住職)、大塚祐謙(石岡村修験)、大塚玄説(石岡村医者)、柴田平蔵(木皿村農民)、福地充宣(友部村医者)、朝日祐誠(諏訪村修験)の七人をいったが、まもなく宿雲に代わって長久保赤水がこれに加わった。・・・・・・」
(『茨城県史 近世編』(茨城県史編集委員会 1985)第9章「学問と地方文化」第4節「庶民文化の興隆」-私塾と寺子屋-より)

 
西暦
年号
1703
元禄一六
鈴木玄淳誕生。友部(現日立市十王町友部)にて。
1715
正徳五
大塚村(現北茨城市大塚)に移り住む。
1723
享保八
結婚。
1727
享保一二
友部村(現日立市十王町友部)の儒医佐川三順に医術を学ぶ。
1733頃
享保一八
このころ下手綱村(現高萩市下手綱)に移住。
医師として開業し、私塾を開く。
後に玄淳を中心として松岡七賢人・松岡七友と呼ばれるようになる。
1741〜
寛保元
水戸の学者小宅采菊や名越南渓に師事、儒学や詩を学ぶ。
1749頃
寛延二
南渓のすすめで、水戸の官医加藤玄信に師事して医術を学ぶ。
1752
宝暦二
松岡郷郡代の大場弥右衛門が松岡七賢人に作詩を求める。
翌年、この詩が第五代水戸藩主宗翰の目に留まり、七賢人の各々が表彰される。
1764
明和元
七賢人の一人、大塚祐謙、73歳で死去。
1766
明和三
七賢人の一人、柴田平蔵、52歳で死去。
1770
明和七
七賢人の一人、福地東園、74歳で死去。
1772
安永元
玄淳古稀の祝いとして、長久保赤水が賀詩文を募る。
藤田幽谷、赤水の命を受けて『寿盧先生七十』を代撰する。
1777
安永六
名越南渓、79歳で死去。
1778頃
安永七
私塾の門人のために『和漢年代歌』を作る。
翌年、藩主治保の目に留まり、赤水にその奥書を命じ、後に玄淳に褒賞を与える。
1780
安永九
七賢人の一人、朝日祐誠、68歳で死去。(前年に、『百姓日用訓』の序文を記す。)
1782
天明二
『唐詩平仄考』執筆。
1784
天明四
3月26日、玄淳死去。
版本『和漢年代歌』
1785
天明五
七賢人の一人、大塚玄説、68歳で死去。
1790
寛政二
玄淳の七年忌に門人・知人らが歌や詩を作り故人をしのぶ。
長久保赤水、これらをまとめて一巻の追悼集とし、墓前に供える。
1801
享和元
七賢人の一人、長久保赤水、85歳で死去。
(参考文献:高萩郷土史研究会編 2007 『松江盧淳 鈴木玄淳と松岡七賢人たち』
高萩郷土史研究会 pp.238-240)

鈴木玄淳略歴

  1703年、多賀郡友部村(十王町)の農家に生まれる。少年時代大塚村(北茨城市)に移り、染物業をして家計を助けた。松江20歳の時、友部村に塾を開いていた佐川三順のもとで学問に励んだ。その後、下手綱村(高萩市)で医業を営むかたわら、塾を開き、郷土の子弟の教育に力を尽くす。松江は、医学だけでなく漢詩などにも精通し、作詩を好んでいたので、広く他の地域から教えを受けにきた者が少なくなかった。
松江が著した「唐詩平仄考(とうしひょうそくこう)」は、漢詩をつくるために役立ち、広く寺子屋などの教科書にもつかわれ、庶民教育に果たした役割は大きい。他にも、「和歌年代歌」や「百姓日用訓」などの著もあり、これらは松江が一般庶民の教育のために記したものである。
 長久保赤水も、少年時代に松江から唐詩選などの手ほどきを受けた1人で、二人の交友は永く生涯を通じて行われた。また松江は、松岡七友・松岡七賢人[鈴木松江・長久保赤水・柴田東江(とうこう)・大塚孤山(こざん)・大塚青嶂(せいしょう)・福地東園(とうえん)・朝日旭峰(きょくほう)の好学な仲間七人をいう]の中心的役割をはたし、お互いに交友を深め研修に励んだ。これは、ただ高萩地方だけでなく、水戸藩の文運復興の助けにもなったことが考えられ、歴史上重要な意義をもつ。
 松江は生涯任官せず隠者として、下手綱村で82歳の生涯を終えたが、松江の志は高く、当時の一地方の文化・教育の発展に寄与したところは大きい。
(『としょかんだより』2001年6月号 シリーズ 郷土の先人 『鈴木 玄淳(松江)』より)

鈴木玄淳 関係所蔵資料(一部)

人物全般
高萩郷土史研究会編 2007 『松江盧淳 鈴木玄淳と松岡七賢人たち』高萩郷土史研究会
松岡七友
荒川要司 2001 「江戸時代再発見への旅」高萩市文化協会編『ゆずりは』7 pp.34-37
江尻光昭 1988 「地方文化の興隆と松岡七友」
   北茨城市史編さん委員会編『北茨城市史』上 pp.666-692
長久保片雲 2011 「鈴木玄淳塾」『長久保赤水の交遊』Poemix pp.7-18
長久保片雲 2011 「松岡七友(松岡七賢人)」『長久保赤水の交遊』Poemix pp.19-40
宮田由文 2006 「漢詩集「詩文愚草」と龍子山城、松岡賢人」
   高萩市文化協会編『ゆずりは』11 pp.50-73




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