高萩地域で活躍した郷土の先人たちをご紹介します。名前をクリックすると、各人物の詳しい解説ページへ移動します。

長久保赤水
ながくぼ せきすい)1717年〜1801年

地理学の先駆者として近世史に不滅の足跡を残した長久保赤水
 
 日本で初めて緯度をあらわす緯線(よこ線)と方位を示す方角線(たて線)を使った日本地図を作った人物、それが現在の高萩市赤浜で生まれた長久保赤水です。彼の日本地図は比較的正確な、江戸時代としては画期的なもので、水戸藩の長久保赤水の名を全国に広めました。伊能忠敬を日本地図の完成者とすれば、赤水は日本地図の先駆者と呼ばれ、日本の地理学者として近世史に不滅の足跡を残しました。

松村任三
まつむら じんぞう)1856年〜1928年

東京大学理学部植物教室の基礎を築いた松村任三理学博士

 松村任三は、松岡藩家老の松村儀夫の長男として、下手綱に生まれました。明治3(1870)に大学南校(現東京大学)に入学し、その後、ドイツに留学しました。36歳で理学博士となり、東京帝国大学の植物学教室二代目主任教授、並びに東京帝国大学附属小石川植物園初代園長などを勤め、現在の東京大学理学部植物学教室の基礎を築きました。

鈴木玄淳
すずき げんじゅん)1703年〜1784年

江戸時代、庶民教育に努めた鈴木玄淳

 鈴木玄淳は、18世紀の松岡地方(現・高萩市)に暮らした人物です。その名を知る人は多くありませんが、緯線と方角線の入った初めての日本地図を製作した江戸時代を代表する地理学者として有名な長久保赤水の師であり、松岡七友(松岡七賢人)として知られる人々のリーダーとして地域で知られていました。
 『百姓日用訓』や『和漢年代歌』など庶民の教育のためにの著作を手掛け、なかでも『唐詩平仄考』は漢詩製作の参考書として高く評価され、当時多くの寺子屋などで教科書として用いられました。

戸沢政盛
とざわ まさもり)1585年〜1648年

松岡城の築城者にして新庄藩六万石の祖

 古い歴史を持つ松岡。そこにはかつて竜子山城という名の山城がありました。江戸時代初頭、その城を改築し、近世大名の城として整備したのがこの戸沢政盛です。

 戸沢政盛は仙北角館城主戸沢盛安の子として生まれましたが、豊臣から徳川へと権力の移る激動の時代の中、関ケ原の戦いにおける功を認められ、慶長7年(1602年)常陸国高萩地方に転封(領地替え)されることとなりました。それからちょうど20年後の元和8年(1622年)、政盛は出羽国最上・村山郡(山形県)に国替えを命ぜられます。その石高は六万石。常陸領は四万石でしたから、大幅な加増となりました。その後戸沢氏は、新庄藩の大名として明治初年まで十一代にわたってこの地方を治めました。

中山信吉
なかやま のぶよし)1577年〜1642年

徳川光圀(水戸黄門)を水戸藩の二代目藩主に選んだ水戸藩附家老

 ドラマでも全国民に知られる水戸黄門こと徳川光圀ですが、光圀が水戸藩の藩主となるうえで大きな役割を果たしたのが、この中山信吉です。

 彼の職は、水戸藩の附家老。家康は自分の子たちである九男義直を尾張に、十男頼宣を紀州に、十一男頼房を水戸に配置しました。後のいわゆる「御三家」です。しかしまだ彼らは幼少のため、これら三人に信頼できる家臣を付けました。これらのうち「五家」と称され、別格の「附家老」として位置づけられたのが、尾張徳川家の成瀬氏と竹腰氏、紀伊徳川家の安藤氏と水野氏、そして水戸徳川家に付けられた中山氏、中山信吉でした。




     
郷土の先人/長久保赤水
郷土の先人/長久保赤水
郷土の先人/松村任三
郷土の先人/松村任三
郷土の先人/鈴木玄淳
郷土の先人/鈴木玄淳
郷土の先人/戸沢政盛
郷土の先人/戸沢政盛
郷土の先人/中山信吉
郷土の先人/中山信吉